タケイブログ

ほぼ年1更新ブログ。

「行きて帰りし物語」と「インドに旅して悟りをひらく」式物語、および想像的コミュニティについて少々。

 連絡がてら更新。私事ではあるけれど、明日からチェコ・フランス旅行に行く。カフカクンデラシュヴァンクマイエルゆかりの地であるプラハルーブル美術館ムーラン・ルージュシネマテーク・フランセーズのあるパリ……はじめての海外旅行ということもあって結構楽しみにしている。

 ところで、物語論的にいえばウチは「行きて帰りし物語」を通して成長してくるのだろう。生まれ育った日本を離れ、単身で異国に乗り込み、現地の日本人旅行者や心優しき外国人の援助を受けながら目的地に到達し、帰って来てじぶんが日本人であることを確認するのだ。
 ……もちろんそんな訳あるはずもなく、片道12〜13時間で行き帰りも簡単、異国の地をカタログのごとく紹介してくれる旅行ガイドだってある。しかも8泊10日という期間が約束されている。目新しいものや非日常との遭遇はあっても、それが物語のごとく都合良く成長に結びつくはずもない。というかそもそも旅というよりは観光なんだから。
 ただそれでも「インドの雄大さに触れて悟りを開く」のような物語を、旅に期待する人は少なくないんじゃないだろうか。いわゆる「自分探しの旅」とか。それらを本気でのたまう人がいるのかは疑わしいけど、旅に何かを期待する心情自体はわからなくもない。ただそれは自己啓発本と同じ水準に(特にエキゾチックな土地への)旅を位置づけるようなものだよなと思う。


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 そもそも行って帰ってすべてうまくいく……旅を通して成長するという物語は実はきわめて昔話的で、内面の葛藤を主題とするという現代的(近代的?)問題には対応できないんじゃないだろうか。もちろん物語はあくまで物語に過ぎないから、これまた水準を混同している気がするけれども、何となくそのように感じている。
 というのも、旅の物語=「行きて帰りし物語」が社会的なものであるからだ。昔話や神話においては、主人公の内面の葛藤は旅路の距離の遠さに置きかえられて表されているらしいとどこかで読んだ記憶がある。昔話においては主人公の内面は存在しないに等しい。そこでは成功もまた、個人のアイデンティティの獲得などではなく、結婚や繁栄といった社会的成功という形をとる。
 なおかつ旅の途中には踏むべきステップがある。鬼退治に出発した桃太郎が腹を空かせた畜生どもにきびだんごを与えて手なずけるように、主人公の外部には明確な目標と障害があり、欠如とその解消には段取りが必要だ。ここでは物語=旅=通過儀礼となっている。

 一方、現代的な物語はコミュニティ内における個人、あるいはコミュニティの狭間におかれた個人の葛藤を描く。人々とのやりとりが内面の葛藤の輪郭とその解決を浮き彫りにするという形のものであるように思う。
 旅の話ではないものの、このような古い物語と現代的な物語の違いはたとえばウルトラシリーズの変化にもみられる。『ウルトラマン』における科学特捜隊がプロフェッショナルとして当たり前に働いて数々の事件を解決していた一方、『ウルトラマンメビウス』のCREWGUYSの場合はチーム成立から各人の入隊動機、個々人の成長といったものが描かれていた。このように現代において物語に求められるものはだいぶ異なってきている。

 このような変化については散々指摘されていることだろうし、そもそもまだまだ自分の考えが漠然として整理がついていないので強引にまとめるとして……とりあえず何が言いたいのかといえば、「インドで悟りを」式の物語に期待した所で、刺激にこそなれども内面の葛藤を解決してはくれないし、昔話の基準でみるとそもそも具体的なステップが足りない。要は単純に行って帰って成長するなんてことはないよなという話。
 むしろサプリメントとしての物語を現実の旅に重ね合わせるよりは、経験に身をゆだねて楽しむ方がいいんだろうなと思う。


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 ふと思ったのだけど、現代的(近代的?)な物語ってもしかすると、ばらばらで孤独な個人を共感で結びつけて想像的にコミュニティを作ることにあるのではないだろうか。桃太郎やオイディプスは「こいつは俺だ!」と思わせる力はないけれど、現代の物語の登場人物たちなら、誰か一人くらいに対して読者は強い共感を覚えられるかもしれない。その時、読者は間違いなく孤独ではないはずだ。スタージョンの『孤独の円盤』、瀬川深『チューバはうたう』を読むと特にそのような感覚を覚える。
 社会から疎外された「私/奴等」が、フィクションの中にもう一人の自分をみる。自分と同じ孤独を理解し、共有する誰かがどこかにいるのだ……そんな希望を与えてくれる。ただもし現実にそのような誰かと出会ったなら、そのような思いは仲間意識となって、「我々/奴等」という線引きをし始める。そうなると今度はまた互いの間にズレが生まれていくから、やはり物語上に見出される空想上のコミュニティが必要とされるのかもしれないけど。
 いずれにせよ現代的な物語は、社会の成員となることでアイデンティティが保証されるという昔話の構図の裏返しなんだと思う。社会に分断されたばらばらの個人が周囲の人間関係の中でアイデンティティを確立して(想像的に)コミュニティを立ち上げる話。
 あと他にも二次創作による同人活動のような、キャラ萌えによって現実にコミュニティを作るための物語がある気もする。むしろこれの方が現代的(ポストモダン的?)かもしれないけど。