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”正統派文学”の空虚な中心――かじいたかし『僕の妹は漢字が読める2』感想

僕の妹は漢字が読める2 (HJ文庫)

僕の妹は漢字が読める2 (HJ文庫)

 ご存じの通り、本作は「漢字が使われなくなり、萌え文化がメインカルチャーとなった二十三世紀」という奇想と二十三世紀文学の前衛的(?)な文体が発売前から話題を呼んだ。「「萌え」ばかりで中身のないラノベを読んでると馬鹿になる」という蔑視の視線と「オタクを嫌悪するやつも結局は一緒でこんなに滑稽じゃないか」という皮肉めいた視線の両方が本作には同居していて、権威主義的なものが「どっちもどっち」として相対化されている。そのやり方には風刺が効いていて、特に「文学」と「萌え」を主題としてしまう露骨さには『最後の喫煙者』等の筒井康隆的なパロディSFを思わせるものがあった。
 第一巻の出オチ臭と比べるとだいぶまっとうな作品になったと思う。でも物語の点でも萌え要素の点でも前回以上に楽しめた。一見するとバカバカしいのに、二重三重のねじくれがあるのだからまったく本作は油断がならない。

 さて今回の記事では、第一巻と第二巻の内容を踏まえつつ本作についての私見を述べたい。いささか長くなり過ぎた本論を簡単にまとめるなら、「どう見ても二十三世紀は消費社会的なディストピアだし、「萌え」がファシズム化してるように見えかねないから、ギンたちは「どっちもどっち」を掲げるのでなくてきちんと二十三世紀を弁護する根拠が必要だよね。なのに結局、個人のわがままの問題で片付けてしまった。もっときちんと話あって解決すべきだったんでないの」となる。
 おそらく多くの読者がこのように感じていたことだろう。それに前回の記事といくらか内容が被る部分もあるが、ここでは作中に現れるモチーフや設定などの細部をみながら検証する(ネタバレありなので注意)。


◇◇◆◇◇

 作中の未来社会の有り様は主人公イモセ・ギンの視点から語られる。そしてその行く先々でギンは自身の愛好する"正統派文学"の批判者たちとあいまみえることになる。彼らの「低俗」「堕落」等といった批判に対してギンは"正統派文学"を擁護するのだが、その時ギンはしばしば「見た目で判断するな」という旨の主張をしている。
 だがおそらく「二十三世紀の社会はどう見てもディストピアだろ」と感じた読者は少なくないはずだ。とりわけ第二巻では"正統派文学"以外、すなわち日常の風景や教育・学問の分野といった社会の細部が書かれており、そのために二十三世紀のディストピアぶりはより際立っている。
 ではいったい二十三世紀のどのような部分が私達の目にディストピアとして映るのだろうか。

 もちろんそれには「「萌え」がメインカルチャーになる」という「価値観の転倒」も理由の一つにある。だがそれだけではない。「萌え」化した世界にさりげなく結びついた消費社会的なイメージもまた理由の一つだ。
 たとえば科学技術の分野では、老舗のおもちゃメーカーである「番台」「宝富」がスポンサーとして研究資金を提供している。これらスポンサーの意向により、発明品のレーダーは銃型のおもちゃとして開発され、ショッピングサイト上で限定商品として売りさばかれる。また食品や飲食店事情に関しては、伝統的で歴史のある店として「M」のマークで有名なハンバーガー屋が駅前の一等地に店舗を構えている。一見さんお断りの雰囲気があって高校生には場違いの店だ。現代では商業主義的、消費社会的なイメージでみられがちなこれらの企業や商品が、未来では権威ある「伝統」のイメージを獲得して人々に影響力を与えている様子をそこにみてとれる。
 これらの企業は日本に根を下ろして久しく、現代でも社会に溶け込んで子供から大人までの生活スタイルに影響を与えている。またジャンクフードの代表格である「M」のマークのハンバーガー屋が「食育」を掲げるように、自社や自社商品の「正統性」を獲得しようとする企業側の努力も常に存在する。とはいえ私達はその来歴や経営方針、現代における地位を知っていればこそ、これらを日本の「伝統」と結び付けることはない。
 一方、これらの企業がもつ権威が二十三世紀においては既に自明のものとなっている。なおかつ「価値観の転倒」の面白さを表現するためか、あるいは紙幅の限界のためか、これらが「伝統」を獲得した経緯や根拠の説明は省略されている。それ故に読者の目には二十三世紀人が無根拠な「伝統」をありがたがっているように見えるのだ。二十三世紀人が根拠に乏しいものを漠然と信じてしまうのであれば、当然彼らは懐疑心や批判的な視線を持ち合わせていないことになる。事実、高級銘菓という宣伝を間に受けて彼らはかの有名なサクサクした棒状のお菓子を十本セット・五万円で買っているのだ(もっとも物価や品質が今と同じとは限らないが)。
 このように二十三世紀人の「伝統」への盲目的な追従は読者に彼らの批判能力の欠如を感じさせる。さらにその「伝統」の形成には企業側のイメージ戦略の影響も想定できるため、読者はそこに洗脳のイメージを見て取る。いわば二十三世紀とは「M」の字のハンバーガー屋の「食育」の完了した世界であり、故に読者にはディストピアとして映るのである。

 また教育の現場には別の形で消費社会的なイメージが存在する。たとえばギンの通う高校では、生徒たち個々人が自由にキャラメイクできる二次元教師が教鞭をとり、学生たちに「ぞくせいがく(属性学)」を教えている。選択肢次第で教師の反応が変化し、正答の場合には「ごほうび」がもらえるというシステムはギャルゲー的(むしろ脱衣麻雀的?)だ。
 といっても、ギャルゲー(オタク)的であるから消費社会的だ……というよりもむしろここでは教育のサービス業化が極度に進んでいる点の方が重要だ。二十三世紀の学校教育は生徒個々人のオーダーに応じ、かつ「ごほうび」といった学習の喜び以外で満足感を与える。このようなサービス業的教育は大人たちが子どもたちに奉仕する教育であって、大人の側から一方的に教え込む現代の学校教育とはある意味で対局的なものである。もちろん国家の立場からすれば、どちらも子どもたちを社会の一員に育て上げる手段であることに違いはないだろう。だがそのありようは異なる。現代の学校教育が理念に生徒たちを従わせるものならば、二十三世紀のそれは生徒たちの消費者傾向を利用したきわめて実効的なものだ。
 ここでもまた同様に、与えられたものを人々が一方的に享受するような消費社会のイメージを見て取ることができるだろう。

 他にも恋愛や結婚に関しては、『いまこそ かんがえよう こいびとは にじげん? さんじげん?』という本が出るほどに二十三世紀では二次元の恋人が一般的だ。しかしここにもやはり消費社会の影を見い出さざるをえない。
 たとえばギンと同じクラスのスガワラ君ほどのツワモノとなると、二枚の美少女絵のポストカードを並べて「リアルな修羅場シチュエーションを楽し」んでいる。文豪のオオダイラ・ガイともなればその想像力だけで脳内妹とのやり取りが可能だ。だがそれらは単なるごっこ遊びに過ぎず、実際に接触や会話が可能な二次元嫁や、人間が行き来可能な独立した二次元世界が存在するわけではない。萌え文化の浸透した二十三世紀においても、二次元世界は未だメディアやロールプレイを通して想像的にアクセスするしかない虚構として在る。現代と同じく未来でも二次元嫁は誰かの手によって生み出されるものなのだ。
 なおかつ完成度の高い虚構を作るにはそれなりの想像力や技術力を必要とする。個々人が媒体と想像力を自給自足できない以上、二次元嫁の供給には出版や放送といったメディアや生産技術が不可欠となる。だとすればこれらの二次元嫁は現在と同じように「商品」という形で流通するのではないだろうか。

 もっともこの点に関しては、そもそもの世界設定の詰めが甘いように思われる。というのも「萌え」が過剰に浸透した世界で消費の対象としての「萌え」がどのように成立するのかが曖昧だからだ。二十三世紀では報道・教育・政治といったあらゆる分野に日常的に二次元少女が用いられる一方、おっぱいマウスパッドや等身大フィギュアなどが国宝級の文化財として扱われている。ではスガワラ君のポストカードはどのような位置付けなのか。貞操観念はどうなっているのか、インターネットに類するメディアはどうなっているのか等々、現時点では不明な点が多い。
 ただいずれにせよ二次元嫁はほとんど自給自足の不可能なものとしてあるだろう。「もえっこ」を自ら生みだそうとする一部の人々は"正統派文学"や「萌え」グッズという"伝統工芸"の作り手に回ることになる。そして生みだされた「もえっこ」がメディアや、学校や街中のインターフェースによって支給される。あるいはポストカードといった二次商品として出回ることによってその他大勢が「二次元嫁」を選ぶことができる。ここではさしあたりそのように想定しておこう。
 するとそこには、企業や国家が主導あるいは支持する形で「萌え」に関与し、人々がそれらを享受しているという社会の構図が浮かんでくる。その構図はまたもや消費社会的だが、ここではさらに「文学」までもが加担している。"正統派文学"が「萌え」を日本の「伝統」として根拠づけ、企業と国家はその「正統性」をもって経営や政策を推し進める……そのような支配構造が存在していても不自然ではない。
 二十三世紀では、社会で大きな地位を占める"正統派文学"という権威までもが「萌え」イデオロギーと消費のスタイルを肯定するのである。

 以上が二十三世紀社会のディストピア的な側面である。そこに見られるのはテリー・ギリアム未来世紀ブラジル』やジョン・カーペンターゼイリブ』といったSF映画作品で描かれたような戯画化された消費社会だ。二十三世紀人は「萌え」をはじめとするさまざまな「伝統」に当然のごとく従う。それらは多分に誇張や捏造を含みうるものだけれども、その内実や根拠を問うことをしない。ただ企業や国家から提供される「萌え」や数々のサービスに身を委ねるのみだ。
 二十三世紀人は堕落し洗脳された大衆である。そのように彼らを断じてもあながち間違いではないだろう。


◇◇◆◇◇

僕の妹は漢字が読める』では、「萌え」の文化をメインカルチャーに立たせて「文学」のパロディをさせることで、双方の地位を相対化するという戦略がとられている。ラノベ業界やオタク文化のメタファーであるかのごとき二十三世紀社会を設定し、「萌え」に対する批判者のふるまいを誇張して"正統派文学"側にとらせることで自嘲と皮肉を同時に行っている。いわば「権威」そのもののパロディを通じて二十三世紀文化を擁護あるいは批判しているのは本書を読んでの通りだ。
 しかしながら、二十三世紀は実質ディストピアとして書かれている。そうである以上、「どっちもどっち」と主張するのみではいささか頼りない。何らかの根拠が提示されなければ読者の二十三世紀に対する不信感を拭うことはできるはずもない。
 では二十三世紀人代表であり"正統派文学"の擁護者でもあるギンは、「低俗」「リアリティがない」「陳腐」「堕落そのもの」等々、反"正統派"からの批判にどう反論するのだろうか。

 第一巻でギンが示すのは「表面で判断するな」という主張だ。ギンは時代の変化に伴い文化や言葉が変わっても「作品にこめられた想い。強いて言うなら、人の心」という本質は変わらないのだと説く。異文化への寛容さを説くこの主張は至極まっとうなものであり、同時に私たちオタクの気持ちを代弁するものでもある。ちなみにこの主張は作中でのタイムトラベル経験と、作中作『おにいちゃんのあかちゃんうみたい(以下、おにあか)』を読んでもらわれ子としての苦しみから救われたというギン自身の経験に根ざしたものだ。また第二巻では、"正統派文学"は「読みやすくてわかりやすい」「読んでいて楽しい」「メッセージ性は読者が自由に感じ取るもの」「文化を評価する軸が変化しただけだ」という主張がなされる。これらの主張は、現代文学の流れを組んだ「父祖伝来の文学」の復権をもくろむサダメ青年との舌戦の過程でギンが提示したものだ。
 ここにおいてやっと"正統派文学"を支持するいくつかの根拠が提示されたようにみえる。けれどもこれらの主張はどこか説得力を欠いた空疎なものに聞こえないだろうか。

 確かにギンが主張するように"正統派文学"が唾棄すべきものであるという見方に対して寛容な態度を要求するのは間違いでない。だが上述したように、あくまでそれは価値観の相対化であって"正統派文学"のすばらしさや意義を説明するものではない。それに"正統派文学"が人の心をうったとして、それは文学一般ないしはフィクションにも言えることだ。また「読みやすくてわかりやす」く、それ故に人口に膾炙したものが必ずしも良いものだとは限らない。ここでは一般論が提示されるか、" 正統派文学"が広まったのだという「現実」が示されるばかりである。
 端的に言えば、ここには「なぜ"正統派文学"(あるいは現代文学や「父祖伝来の文学」)でなくてはならないのか」という問いと答えが存在しない。ギン一行にしろ文芸部部長やサダメ青年にしろ、自身の「文学」を自明にとらえるあまりその根拠を説明できていない。もちろん異なる文化同士の優劣を決めることは不可能だが間をつなぐための努力は必要だ。彼らの間にはそのためのコミュニケーションが決定的に欠けてしまっている。
 当然の帰結として、これら"正統派"と反"正統派"の論戦は常に平行線をたどることになる。いくら「どっちもどっち」を主張した所でこれではお粗末極まりない。

 さらにいえば、一見するとギン自身のことばとして書かれたこれらの主張には、実はオオダイラの影響が色濃くうかがえる。
 物語の中盤に掲載された二十三世紀の文芸雑誌『ぶんげいっこ』の抜粋とギンの主張を比較するとその事実は明白だ。誌上インタビューにてオオダイラは「日本人の「おもいやるこころ」」が「言葉の単純化」をすすめたのであり、「現代人は文章を読むスキルに優れているから、たった四文字のテキストから、思い思いのパノラマを広げ、細かなニュアンスを、書かずとも読みとる」のであり、「文章による枷から解き放たれ、読み手が思い思いに想像を広げることができる自由な言語になった」と主張している。多少の相違はあれ、ギンの"正統派文学"を擁護する発言がこれらの意見に対応していることは理解に容易い。
 ギンはあたかも自分の言葉として"正統派文学"を語りながらもその実は無自覚のうちにオオダイラ流の"正統派文学"の言葉をなぞっている。しかもそれは"正統派文学"の理念やその表面の反復に過ぎず、残念ながら現時点では擁護者たりえていない。なおかつ他の登場人物の態度にいたっては批判者であるか、教条主義的な擁護者であるか、もしくは問題そのものを矮小化してしまう者かのいずれかだ。本作には"正統派文学"を真っ向から擁護する言葉が存在しない。
 それでいてギンが二十三世紀一般の感性を代表しているとなれば、そもそも彼の主張するように二十三世紀人が"正統派文学"を本当に自由に読解できているのかすらも疑わしい(もっともギンが二十三世紀社会の代表者なのか、それとも異端なのかは作中の描写からは判別がつきづらいのだが)。

 このようにギンに強い影響を与えるオオダイラの発言を注意深く観察すると、「萌え」と結び付いて二十三世紀人を規定するある思想の存在が垣間見える。
 たとえばオオダイラへのインタビューにはそれが顕著だ。そこでオオダイラが語っているのは単に"正統派文学"の特徴や優越性だけではない。彼の発言は" 正統派文学"発生の原因や起源にまで及んでいる。その時の彼の語り口に見られるのは「日本人には思いやる心がある。だから言語が単純化した」「現代人には文章を読むスキルに優れている。だから細かなニュアンスを書かずに読みとる」といったような、日本人(≒現代人)に特有の能力やメンタリティを求める傾向だ。またオオダイラは『万葉集』や『かぐや姫』を「現代語」に翻訳してそこに「萌え」の「伝統」を読みこみ、「もえっこ」こそ「神聖なもの、尊いもの、愛らしいもの、美しいもの、護るべきもの、気高きもの、誇るべきもの、日本民族の精神性を象徴するもの」と述べる。
 日本における"正統派"として「伝統」を称揚し、そこに国民としての在り方や規範をみてとる――つまるところそれらはナショナリズムにほかならない。
 オオダイラは最初に登場したその瞬間から一般的な「文豪」のイメージの露骨なパロディとして存在していた。だが二十三世紀をディストピアとして見る時オオダイラのふるまいがもつ意味は重い。
 既に述べたように、二十三世紀では企業や国家が積極的に「萌え」を用いており、人々は消費者としてその「萌え」を享受している。そして"正統派文学"がその状態を「伝統」として再強化するという「萌え」を社会全体で支える構図が二十三世紀からうかがえる。実妹派や義妹派の対立のように「萌え」のさらなる細部をめぐって政治的立場が分かれることはあっても、「萌え」そのものに批判の目を向けるものは数少ない。それどころか二次元総理によって参政権が向上してしまうように人々は一体となって「萌え」を支持している。
 二十三世紀において「萌え」はイデオロギーと化し、ナショナリズムの代替物の役割を担っている。そしてギンもまたオオダイラたちによる"正統派文学"の権威に追従しているに過ぎないのである。

 もちろん未来社会が「萌え」化した理由はあくまでも『おにあか』が人びとの心に感銘を与えた結果だと説明されている。そしてその変化が社会の気まぐれによるものであるのか、それとも企業や国家に人々が誘導された結果であるのかはさほど問題ではない。事実、「もえっこ」を信奉しないサダメ青年がマイノリティとして追いやられていることが問題なのだ。このような社会は同調圧力が高く、多様性が排除されてしまう。マイノリティに対して不寛容な世の中であることはまず間違いないだろう。事の次第ではファシズムにすら転じうるものだ。
 だが残念ながら第二巻では、その辺りは通りいっぺんな反省で済まされてしまった。そして最終的には、サダメ青年の個人の孤独や偏狭さや才能のなさといった問題へと矮小化されてしまう。それらの主張もある意味では正しくはある。けれども数々の細部に目を向ける時、いや目を向けるまでもなく、サダメ青年の行為を個人の問題として済ませることがほとんど無自覚の暴力であることがわかるはずだ。『僕の妹は漢字が読める』で繰り広げられる論争とはイデオロギー闘争であり、サダメ青年の行為は革命である。その様相は多分に政治性を帯びているのである。

 なおここで補足しておくと、二十三世紀社会が半ばファシズム化しているようにすら見えるのが著者の意図によるものなのかは不明だ。思いつきの設定を発展させた結果細部の考証が貧弱になっただけにも見えるし、またあえて書かないことでラノベとして成立させているようにも見える。
 ただ「二十三世紀文学の翻訳書」という体裁のメタフィクション的趣向、「有明文化保護特区」のようなニクくもあり皮肉でもあるネーミング等々、本書の所々に見受けられるねじくれ方をみるに著者がそうした問題に無自覚だとも思えない。ウチとしては、著者は後者の姿勢をとりながらもストレートな物語にたどり着こうと奮闘しているのであればいいなと思っている次第だ。


◇◇◆◇◇

 ここでいささか唐突ではあるが大塚英志憲法力 ――いかに政治のことばを取り戻すか(以下、憲法力)』を参照する。


 同じく大塚英志の著作をとり上げるならば『「妹」の運命 萌える近代文学者たち(以下、「妹」の運命)』の方が、本来は『僕の妹は漢字が読める』の読解にうってつけかもしれない。というのも同書は、日本の近代文学と「萌え」の関係、さらにはナショナリズムの問題にまで言及しているからだ。
 では何故『憲法力』の方をとり上げるのか。それは『「妹」の運命』が日本におけるナショナリズムの起源をめぐる論考なのに対し、『憲法力』はナショナリズムから脱却して新たな「公」を未来に向けて立ち上げるための実践としてあるからだ。後者で扱われているのは「ことば」と政治をめぐる問題であり、なおかつ細部においても『僕の妹は漢字が読める』と符合する点が少なくない。そのように考えてここでは『憲法力』をとり上げたいと思う。

 さて自らを「サヨク」と称する大塚は、これまでにも数々の著作で「近代のやり直し」の必要性を説いてきた。『憲法力』ではその立場から独自の憲法論を展開している。そこで主張されているのは、現代の大人たちに必要な有権者としての基本的能力――「憲法力」の重要性だ。
 では「憲法力」とはいったい何だろうか。大塚は次のように述べる。

柳田国男近代文学者として、それから民俗学者として構想しようとしていた公共性に至ることばの回路を、具体的に人々の内側に回復させていくツールとして憲法を考えてみること。「公共的なものはこういうものである」と先に定義したり、でき合いの「公」に身を委ねるのではなく、「固有の私」を出発点に公共的なものを作っていく過程で、そこにコミットしていく思考の回路や能力のことを、ぼくは「憲法力」と呼びたいと思うのです。そして、大人の「有権者」であるぼくたち、そして、政治の担い手である政治家たちにこの「憲法力」が本当にあるのか、と改めて本書で、そして中高生の「前文」を刊行していくことで皆さんに問いたいのです」
大塚英志憲法力 ――いかに政治のことばを取り戻すか』)

「できあいの「公」」とは、ここではとりわけ近代的なナショナリズムのことをさしている。大塚はナショナリズムへの盲目的な傾倒や無思慮な追従を批判する。ナショナリズム的言説に用いられる「民族性」「郷土愛」「伝統」といったものは、そもそも西洋の進化論的価値観や西洋側からの日本への視線を取り込みながら、近代の成立過程で作り上げられた虚構であるからだ。そのような虚構を所与なものとしてとらえて「身を委ねる」こと――「個々の人間たちが自分たちの「私」をただ「滅私」して合わせる」ことは危険であると大塚は説く。
 たとえば世間一般の価値観を当たり前のものとしてとらえ、それらに「なんとなく」従ってしまう人々は多い。自分自身で検討することはおろか疑念を抱くことすらもない。それどころか「国家」における「国民」のように大きな価値観の中に自分のアイデンティティを求め、積極的に人々との一体感を求めてしまう者もあるだろう。その時、「個」は所与の大きな価値観の中に埋没し、容易に他人から動かされてしまう「大衆」となってしまう。
 しかしながら、民主主義とはそもそも「「個」と「個」のネゴシエートで共同性を作ってい」くシステムだ。話し合うことや交渉することによって私達は共存の在り方を模索していく。それらは既に完成された所与のものではなく、未来に向けて立ち上げていくもの、「常に流動的で常に新たに形成されていくプロセス」としてある。そのために私達はまず、「固有の私」を出発点にしなければならない。異なる生活実感や歴史認識、思想からなる異なる「わたし」=他者の存在を認め、他者との対話を通して「公共性」や「共同性」を立ち上げていく。そのための思考の回路や能力のことを大塚は「憲法力」と呼ぶ。すなわちそれは「他者と話して交渉して、そして合意点を見つけていこうという、ことばが持っている基本的な機能」を信じることにほかならない。日本人を含め、多くの人々が成立に関わった日本国憲法にはそういった平和の理念が託されいる。私達にはその理念を生き直すことこそが必要なのだと、大塚はそのように結論付ける。
 議論の子細は同書にあたっていただくとして、端的にいえば「憲法力」とは異なる人々がことばによって共存の在り方を模索していくための力や態度である。そのためには個人を起点に「共同性」を考える必要があり、その契機として後述するような「自ら憲法を書く」運動を大塚は提唱している。

 いささか抽象的な表現が並んでいるが、では具体的にこの「憲法力」が欠如しているとどうなってしまうのだろうか。
 ひとつには、たとえば権威的なものや社会通念への「なんとなく」の追従がある。「環境保護は正しいもの」という観念などから「日本人」という概念にいたるまで、耳当たりのよい言葉や自明とされている価値観を疑うことなく受け入れてしまう。これらのふるまいは既存の価値観への無批判の従属であり、私達から見れば『僕の妹は漢字が読める』のギンやクラスメートはまさにこれに当てはまるだろう。
 そのような態度は消極的である一方、積極的に既存の価値観を支えるようなふるまいも存在する。それが「読み替え」の問題だ。
「読み替え」の具体例は、同書のコラム「政治家たちの「憲法力」を採点する」中に引用された「憲法調査会」の議事録中にみてとれる。2001年1月20日に設置された「憲法調査会」は、学者や改憲派議員等といったいわば憲法の専門家の集まりである。にもかかわらずその会議でいいかげんな物言いや印象論が横行している様子を大塚は議事録からみてとる。そして議論の内容に逐一ツッコミを入れながら彼らの「憲法力」や「文学力」に疑問を呈する。
 その中でとある改憲派議員が宮澤賢治の『雨ニモマケズ』を憲法論的に解釈するくだりがある。この有名な賢治の詩を、議員は「「誇りを持」って「憲法改正」しよう」と強引に読み替えてしまうのだ。この「読み替え」はそれ自体で失笑ものだが、よくよく考えるとこれはオオダイラによる『万葉集』『かぐや姫』の翻訳とまったく同じふるまいだ。
 オオダイラの訳に関していえば、「現代(二十三世紀)」語訳として書かれたそれらの文章に漢字が使われないことには問題ない。だがそこには原文からどうやっても導き出すことのできないニュアンスが加えられている。さらには「ぱんつ」や「あんもに・a」といったあり得ないシチュエーションまでもが加えられている。これらの訳が翻訳の域を超えた強引な解釈であり、二十三世紀的な「萌え」イデオロギーの影響を強く受けていることは一読して理解できるだろう。オオダイラは日本の歴史を、連綿と続いて来た「伝統」的な「萌え」の歴史と捉え、そこに「日本人の心」を見てとる。それらの前提の下、彼は日本における古典文学を"正統派文学"流の視点で再解釈する(もっともパンツはオオダイラのサービスだが)。

 思想と崇拝の対象の違いはあれ、改憲派の議員に見られるのもオオダイラと同様の態度だろう。彼らは文章をまともに読もうともしていなければ、ましてや著者の思想に寄り添ってすらもいない。彼等のこの「読み替え」とは、「伝統」という理念を自明のものとするあまり、無自覚のうちに自身の歴史認識や価値観の内側に対象の方を取り込もうとするふるまいである。そこに欠けているのは読解力ないしは個別の文章に向かい合おうとする真摯さだ。
 もちろんこれらはナショナリズムに限った話ではない。あらゆる思想的立場で起こり得るものだ。そしてこの態度が人間同士の対話に及べばディスコミュニケーションが起こるのは必至だ。
 「憲法力」は読解力の問題でもあり、その欠如は対象の強引な「読み替え」という形であらわれるのである。


◇◇◆◇◇

 では私達が「憲法力」をもつにはどうすればいいのか。
 大塚はそのための具体的な試みとして「憲法前文を自分の手で書いてみる」運動を提唱している。憲法とは国家に先だって公共性のあり方を定めるものであり、それを自分自身で考えてみることは自分の意見を明確にすることでもある。同時にそれらの「my憲法」は個々人が改憲問題について考える上でも有効なのだと説く。
 この大塚の一連の主張の中で重要な位置を占めているのが憲法における「主語」の問題だ。
 現行の憲法前文の英語文には「We, the Japanese people」や「We」という主語が用いられる箇所があり、それぞれ「日本国民」「われら」と訳されている。しかし前文を丁寧に読み解くと、そこには「日本国民」としての「われら」と上位概念としての人類普遍としての「われら」という二つの主語の存在が読みとれるのだと大塚は指摘する。
 かつて小泉首相イラクアフガニスタンへの自衛隊を派遣したが、その際に根拠にしたのが憲法前文の一節だった。しかし憲法に記された「人類普遍」としての「われら」への視点があれば、イラクの人々の「われら」も尊重されてしかるべきはずである。これはまさに「われら」を「日米」と「読み替え」てしまう行為にほかならない。大塚はそれらのふるまいを批判する。

「「われら」あるいは「We」と書いた時、それを共有しようと書き手が考える範囲はどこに設定されるのか、「日本国民」の中にとどまるのか「人類普遍」を考えるのか「日米同盟」という政治的現実なのか、あるいはそれ以外の「われら」「We」なのか考えてみることが必要です」
(同掲書より)

 この考えの下に大塚は政治家や学者や作家に憲法前文の英語文の新訳を依頼する。実際に訳された前文は、現在の「日本国民」という訳とはまた異なる訳がなされ、その言葉が指し示す範囲が再考されている。
 また実践として大塚は学校の授業で生徒達に「my憲法」に書かせているが、中高生の書く前文は「私」という一人称で書かれながらも「私事」にはとどまらないことにことに気付く。生徒達は「「平等」という語を見つけ出すことで「自分とは違う誰か」を発見し」、意識するのだという。そして次のように述べる。

「「私」を出発点とし、自分と違う誰かを発見し、そして彼らは「自分と違う誰か」の一人、つまり「固有の私」として自分を発見し、その上に「違う誰か」と共有する社会を語る主語として「みんな」という「公共性」を発見します」
(同掲書より)

 大塚はこの中高生たちの前文に「憲法力」という可能性を見て取るのである。
 このように「われわれ」の在り方を定める憲法を自分なりに書き直すことで「わたし」と「われわれ」の関係を問い直す。それはある意味憲法「読み替え」だ。しかしながら、それは人々とのコミュニケーションを築く上での土台ともなり、最終的には「われわれ」のあり方そのものを組み替えていくことにもつながるだろう。大塚の一連の試みにはそのような意図がある。
 ところでこの大塚の主張は、裏返せば無自覚に使われる「わたし」「われわれ」ということばには当人の歴史認識や思想的立場が強く反映されてしまうといえるのではないだろうか。私の味方である「われわれ」とは何か。その中において「わたし」はどうあるのか。また誰が「われわれ」で誰が「われわれ」でないのか。イデオロギッシュになればなるほど、当人のそのような認識が「主語」から滲み出ることになることになるはずだ。

 以上の議論を踏まえて『僕の妹は漢字が読める』に話題を戻そう。ギン一行とサダメ青年の論戦とはイデオロギー闘争であると前述したが、すなわちそれは彼らの戦いが、異なる歴史認識や思想的立場に支えられた「われわれ」同士の戦いでもあるということだ。
 その一方は、ギン一行に代表される”正統派文学”たる「われわれ」だ。オオダイラは「萌え」を「伝統」として掲げ、ギンは「今はこれが支持されているんです」と主張する。無論、ギン一行は個人としてサダメ青年と相対しており、また直接的に「われわれ」に類する言葉を出すこともない。だが彼らの発言には、「もえっこ」を崇拝する二十三世紀のマジョリティたる「われわれ」が想定されている。そしてオオダイラの言葉からその「われわれ」とはイコール「日本国民」そのものであることがうかがえる。
 そしてもう一方が、サダメ青年が代表する反"正統派文学"たる「われわれ」だ。「萌え」を偏重する二十三世紀を憎むサダメ青年はギン一行と異なる歴史認識をもっている。故に彼はたった一人で"正統派文学"に反旗を翻す。もっとも彼の同胞たる「われわれ」は現実には存在しないのだが、彼もまた「われわれ」を夢想している。

 ではサダメ青年にとっての「わたし」「われわれ」とは一体どのようなものだろうか。
 そのヒントは歴史改変の犯人を追う道中でギン一行が発見する「我輩録」にある。サダメ青年によるこの手記には「我輩」、すなわちサダメ青年の世の中に対するうらみつらみがこめられている。

「二二〇一年 八月十九日 記す

 憤怒にかられている。怒髪が天を衝きそうである。
 我輩の労作を諸人に読ませたところ、寄って集って嗤われた。
 萌えのない小説など、陰気だと誹られた。
 諸人はこぞって「正統派を読め」という。
 当世において正統派はその名の通り正しき文学とされ、正統派に類さないものは、異端扱いをされている。
 口惜しい。
 何故、父祖伝来の文学を、かように低く見られなければならないのか。
 何故、奴らは認めようとしないのか。
 何故、我輩を嗤うのか。
 狂っている。当世は狂っている!
 正統派よ。今は我が世の春を謳歌するが善い。いずれ必ず、我輩が誅しよう。
 偉大なる我が父祖よ。貴方の遺志は我輩が継ぎます。
 絶対に、父祖の文学が認められる世の中に致しましょう。泉下よりご覧下さい。」
(『僕の妹は漢字が読める2』より)

 社会から疎外された人間が視野狭窄に陥り、「孤独であればこそ我に正義がある。そして世界を変革することこそが我が使命なのだ」と考えるようになる。サダメ青年の手記に見て取れるこのメンタリティはありふれたものであり、フィクションの題材にもしばしば扱われる。またそのような人間同士が集まって「われわれ」として団結した時、それはテロリズムや革命思想にもつながっていくものだ。

 しかし筆のみでは世の中を変革できない。そう気付いたサダメ青年は、オオダイラ・ガイを脅迫して"正統派文学"を否定させることを目論む。その過程でサダメ青年はタイムマシュマロの存在を知り、歴史を直接的に改変することで革命を達成しようと計画する。
 そして彼は革命への意気込みを以下のように記す。

「 我輩が日本の文化を是正する。父祖の名望を回復し、我輩の才筆を世に認めさせる
 あの白い洋菓子は確保できる。ならば、我輩の取るべき行動は決まっていよう。
 宿命(サダメ)に従い、決起する刻がきたのだ。
 さあ、反逆だ!」
(『僕の妹は漢字が読める』より)

 この手記に「われわれ」に類する主語はない。だがその代わりに「奴ら」=「やつら」という言葉が見られることには注意すべきである。なぜなら「やつら」とは「われわれ」の対になるものだからだ。
 作家を志すサダメ青年は、「我輩」が二十三世紀の「諸人」からあぶれてしまったマイノリティである。そして「「父祖伝来の文学」こそが本来は正統派であるべきだ」という認識の下、"正統派"を激しく敵視している。彼の野望は己の才筆によって自作を世間に認めさせ、"正統派文学"を打ち倒して最終的に「父祖伝来の文学」を復権することだ。ここにおいてサダメ青年にとっての「奴ら」とは、"正統派文学"とそれを支持する「諸人」のことである。
 一方、サダメ青年が歴史を改変して取り戻そうとするのは、彼にとっての正統派である「父祖伝来の文学」の歴史である。明治〜大正期の作家にして偉大なる父祖、冬耳虎彦の文学が世代を超えて継承され、正統派として二十三世紀以降も未来永劫続いていく。無論、そのような歴史は(作中では)サダメ青年のみが夢想する架空の歴史に過ぎないが、サダメ青年にとってはあるべき歴史のかたちだ。その歴史は「奴ら」"正統派文学"を革命によって打ち倒した末に取り戻される理想としてある。
 ここに見られるのは"正統派文学"対「父祖伝来の文学」という「敵」対「味方」の構図だ。さらに言い換えるならば、サダメ青年にとっての「われわれ」と「奴ら」となるだろう。

 とはいえ現実にはサダメ青年の周りにそのような「味方」は誰もはいないではないか。そのような意見があるかもしれない。しかしながら彼の夢想する歴史の中に確実に「われわれ」は存在する。
 たとえば冬耳虎彦がまさしくそうだ。冬耳虎彦(の作品)はサダメ青年にとって崇拝の対象であるが、それと同時に二十三世紀においては時代遅れになっている点で、現に不当な評価を受けている自分が同一化できる対象でもある。また虎彦の作品だけがサダメ青年自身の作品の価値を保証し、サダメ青年だけが虎彦の作品の価値を知っている。サダメ青年にとって冬耳虎彦とは、偉大なる始祖であり、共感の対象であり、唯一の理解者である。そして世界のあるべきかたちの象徴である。
 また「父祖伝来の文学」の継承を願っていたのはサダメ青年だけではない。冬耳虎彦の孫である武夫もまた、自分の息子が祖父のような文学人となることをひそかに期待していた。だが息子が書いていたのは同人誌のための二次創作漫画であり、漫画家を諦めた後、彼はライトノベル作家となった。武夫にとってそれは到底理解できないものであり、息子の「文筆業に対する意識の低さ」には怒りを覚えるほどだった。しかし最終的には「息子が幸せに生きていければよい」という息子の生き様を認めることとなる。
 サダメ青年は日記に書かれた祖先の嘆きと諦念に共感する。そして冬耳虎彦に対して「貴方の遺志は我輩が継ぎます」と宣言する。亡き父祖たちの悲願を達成せねばならない。サダメ青年は自身を「父祖伝来の文学」の継承者ないしは代理人として位置づけ、"正統派文学"打倒の使命を負っているのだと考えるようになる。
 このように、サダメ青年が想定する「われわれ」とは父祖・冬耳虎彦や、虎彦が打ち立てた文学の継承を断念せざるをえなかった祖先たちだ。もしくはそこに未来の彼の子孫を含んでもいいかもしれない。つまりは「父祖伝来の文学」を継承する自分の一族のことである。そしてこの「われわれ」に表されているものが現代における世間一般な意味での「文学」であることは言うまでもない。もっと広く言えば、現代におけるメインカルチャーやマジョリティあるいは権威そのものだろう。

 さてここでサダメ青年が自分の名前とかけて「宿命(サダメ)」と表記していることに注目したい。「宿命」とは「前世から定まっており、人間の力では避けることも変えることもできない運命(EXCITE辞書より)」である。この表現からサダメ青年が自身の行動をあらかじめ定められたこととして、すなわち自分の生を超えた壮大な歴史の一部として捉えていることがわかる。そしてまた「宿命」=「サダメ」であるように、サダメ青年はその歴史の中に位置づけられた「我輩」に自分自身のアイデンティティを見いだしているがわかるはずだ。
 そもそも「父祖の名望」を「回復し」と記されているように、サダメ青年の認識には「奴ら」"正統派文学"の隆盛による「父祖伝来の文学」の危機が前提として組み込まれている。偉大なる父祖、冬耳虎彦が打ち立てた「文学」は時代を経て忘れ去られてしまった。だが「父祖伝来の文学」の徒たる「我輩」が「宿命」に従って「奴ら」"正統派文学"を打ち倒す。それによって危機に陥っていた「われわれ」の「父祖伝来の文学」が復活し、ようやく歴史はあるべき姿を取り戻すのだ――これがサダメ青年の歴史認識だ。
「父祖伝来の文学」のたどる壮大な「われわれ」の歴史を夢想し、「我輩」がその中で役割を果たすことで、サダメ青年ははじめて自分の不幸に意味を与えることができたのである。

 このようなサダメ青年の歴史認識は無自覚のうちにありふれた革命思想をなぞっているように思える。またギン一行に指摘されてしまうように、個人の無能さや孤独感を社会に転嫁している側面も否定はできないだろう。
 しかしながら、二十三世紀社会の「堕落」が必ずしもサダメ青年の視野狭窄による思い込みでないことはこれまでの検証にみた通りだ。二十三世紀は「萌え」が偏重され、限りなく多様性が排除されている。ファシズムとまでいかなくとも"正統派"を信奉しないものに対して無慈悲な社会を形成しており、彼らとの対話は困難であるだろう。またサダメ青年が自身の歴史認識を共有する「われわれ」は二十三世紀に存在せず、彼の「文学」を認めるような余地もない。故にサダメ青年はすべてが「奴ら」であり「敵」であるような世界を生きさせられてしまったのである。

 二十三世紀の社会に心を閉ざしたのはサダメ青年自身だが、彼を圧迫し続けたのは二十三世紀という社会そのものだ。あえて通俗的な言い方をするなら、サダメ青年を生み出したのは「社会の闇」にほかならない。そのような「闇」を捉えるためのことばを"正統派文学"は、二十三世紀の社会は持ち合せているのだろうか。ウチにははなはだ疑問である。


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 サダメ青年が"正統派文学"に対して偏狭であるように、「伝統」や「正統性」から「べき」論で文学を断じる"正統派文学"側の「われわれ」も同様に偏狭で原理主義的だ。大塚流にいえば、"正統派文学"派のギン一行と「父祖伝来の文学」側のサダメ青年の双方に「憲法力」が欠如している。各々の「文学」が原理主義的に「正統性」を主張する。ここで起きているのは異なる「われわれ」同士の闘争であり、歴史改変という規模の大きさを考えれば戦争にも等しいものだ。
 さてこの「戦争」はどのような結末をたどったのか。それは本書に示されている通りだ。
「正統性」を互いに主張し合ううちにギンから「どっちもどっち」の相対化がなされ、そしてサダメ青年自身の孤独や偏狭さや才能のなさへと次第に問題が矮小化されていく。サダメ青年が追い詰められた末のドタバタを経ていったん『戦時協定』が結ばれる。そして「本当に良いものなら歴史に残るはずだ」という意見の下にある提案がなされる。その提案とは、それぞれの「文学」を代表する『あにマジまにあ』と『二十一世紀』、二つの作品が"正統派文学"の祖たるクロナ・グラの手に委ねるというものだ。その結果、依然として"正統派文学"がマジョリティでありながらも「父祖伝来の文学」が生き残り、賛同者を得てマイノリティとして存在するようになった。
 この結末自体は現実的であり、かつ登場人物の設定から導き出されたものとしては妥当な解決であるといえよう。作品としてはこれで問題ない。ただあえていわせてもらうならば、「結局、群れる仲間が欲しかっただけなのだ!」と断じるのはほとんど暴力に等しいように思う。なぜならこれまで検証してきたように、おそらく二十三世紀にはあまりにも強大な「群れ」が形成されているという現実があるからだ。

 そもそもわかりやすくて人の心をうつ物語がいかなる場合においても良いものであるとは限らない。たとえば大塚が別著『物語消滅論  ――キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」(以下、物語消滅論)』で指摘したような「構造しかない」物語の問題がある。


 乱暴にまとめるならそれは、神話的構造に忠実な物語は作り手にも受け手にも馴染みやすい普遍性を獲得するが、その単純さ故にイデオロギーの器となるか、あるいはイデオロギーそのものとなるという問題だ。
 前者の例は、戦時下に『桃太郎』やディズニーアニメが敵国批判・打倒の物語として書かれた例がわかりやすいだろう。だがより深刻なのは後者の方だ。大塚は後者の例を、イラクアメリカの戦争にみてとる。そこでは「キリスト強対異教徒」という善と悪の戦いの構図が現実に重ねられ、ブッシュは西部劇の主人公に例えられた。そして「大量破壊兵器をもっていたかどうか」という根拠=「なぜ」が問われぬまま、事態はハリウッド映画の通りに展開してしまった。
 構造化された物語はただ機能することだけを目的とする。そのためにとてもわかりやすく、一定の説得力を持ち得てしまう。たとえば吉本ばななの『キッチン』はまさにそのよう小説だ。主人公の心の変化や行動が「なぜか」「自然に」といった説明不要な言葉として表現されても、流れるように自然と物語が進んでいく。なぜならこの小説が説話の構造に忠実であるためだ。
 だがもしこのような説話論的な因果律が現実の政治に用いられれば、その一つ一つの判断や行動に対して「なぜ」という根拠が非常に問いにくくなる。なぜなら多くの人々にとって「物語」はわかりやすいからだ。この時、「物語」はただ機能を遂行し、それ自身を成立させようとするようなイデオロギーと化す。かくして政治は人々にとってのエンターテイメントや自己実現の「物語」となってしまうのだ。
 私達は現代に蔓延するこのような「説話論的イデオロギー」に対して批評的でなければならない。そして現代文学が果たす役割もまたそこにある。

 以上が『物語消滅論』にて大塚が問題提起した内容だ。このような「説話論的イデオロギー」は「憲法力」と対極の概念であり、「わかりやすさ」が抱える危険性の一つであるのは言うまでもない。
 しかしながら、これらの主張には次のような意見があるかもしれない。そもそもギンが説明しているように、"正統派文学"は「ストーリー」よりも「シチュエーション」や「キャラクター」性を重視し、メッセージ性の解釈は読者にゆだねる。だからそのような"正統派文学"は「構造しかない」物語には当てはまらないのではないか……という反論だ。
 これについてのウチは次のように考える。複雑で陰鬱な「ストーリー」が忌避され、シチュエーション優先で物語の体裁をなしていないことはありうるとしても、構造レベルで"正統派文学"に物語は残るのではないか、と。
 というのも「文学」が読み物としての形態をとる限りは「はじまり」と「おわり」の発生を避けることができない。作品にも何らかの時間性が導入されるはずだからだ。また『きらりん! おぱんちゅ おそらいろ』の冒頭にしても、「曲がり角で転校生と衝突」という単なる王道シチュエーションではない。ボーイミーツガールさながら「出会い」が発生し、物語を開始させるという役割をこの場面は担っている。このようにフィクションを駆動させ、展開を切り替えていく上での物語構造は"正統派文学"でも健在であるだろう。故に「構造しかない」物語は「シチュエーション」志向と両立しうるだろうとウチは考える。

 いずれにせよ『僕の妹は漢字が読める』で書きだされているのは、まさにそのような「わかりやすい」言葉が持つ力だ。快楽原則に従って人々が動くような二十三世紀の消費社会において、国家が「萌え」のイデオロギーを支持し、"正統派文学"がそれを虚構を通して供給する。「わかりやすさ」故に「人の心を動かす」ような"正統派文学"のことばは、「説話論的イデオロギー」とは異なるものなのかもしれないが、少なくとも『憲法力』におけることばの在り方とは全く異なるものだ。
 大塚は交渉のための「ことば」、つまりは合理的、理性的なことばが世界から失われ、ことばで説明不要の原理に人々が身を任せている現代に警鐘を鳴らしている。そしてそのような事態を「再魔術化」と形容している。この事実と、オオダイラが「現代日本語の魔術師」と称されていることは単なる偶然の一致ではない。両者はともに説明不要の原理で現実を塗り替えてしまう力を持っているのだから。ギンの主張する「読みやすくてわかりやすい」「楽しい」「これだけ世の中に広まって、文学の中心になったんだ」という"正統派文学"のすばらしさとは、つまるところ「説話論的イデオロギー」と同質の「魔術」的なことばの力にほかならない。
 またギン一行は「現実はこうなっている」「本当に才能があるなら人の心をうつはずだ」といった旨の主張をサダメ青年に向けている。しかしそれは「魔術」的なことばで塗り替えられた「現実」、あるいは「魔術」によって塗り替えられるであろう「現実」に従属させようとする結果論的な態度ではないだろうか。
 集団形成に「文学」が強い影響を与えている『僕の妹は漢字が読める』の世界において、ことばの力とはほぼ「武力」とイコールのものである。そう言っても過言ではないだろう。ギンは寛容の大切さを説き、サダメ青年の偏狭さに立ち向かおうとするその一方で、"正統派文学"の武力に下るか、サダメ青年自身のことばの「武力」によって「父祖伝来の文学」派たる「われわれ」を立ち上げるか、という二択を無自覚のうちに迫ってしまっている。
 この時、ギンたちは「一見ことばの力を信じているようでありながら、実は「ことば」を信じない、という選択をしてしま」うという、大塚的な意味での「ことばの裏切り」を行っているのだ。

 当然、ギン一行とサダメの間で交わされるべきであったことばとは「魔術」的な「文学」のことばではない。「「個」と「個」がネゴシエートして公共性を立ち上げていく」ための交渉の言葉、すなわち目の前の人間と対話し、未来に向けて共存の道を探っていくための言葉であったはずだ。


◇◇◆◇◇

 ここまで『僕の妹は漢字が読める』の内容について否定的に述べてきた。現時点において、本書は「見た目で判断するな」と「どっちもどっち」の態度の重要性を説きながら、異文化が共存するための言葉を断念するという結果に終わってしまっている。
 ではそこに可能性はまったく存在しないのだろうか。そうではない。本書にはある可能性が示されている。

 その可能性とは、いつまでも平行線をたどるサダメ青年との議論の末、ギンからの提案として現われたものだ。ギンは頑なに態度を変えないサダメ青年に必要なのは「読者」であると結論づけ、そして「クロハ、寝癖さん(サダメ)の書いたものを読んで、感想を言ってあげてほしい。僕が読めたらいいんだけど、僕は読めないから」と提案する。クロハはギンのために「翻訳してあげる」というと、それにユズとミルも反応する。サダメ青年を「拗ねてるんだよ。かわいそうだろ」と断じているのはともかくとして、ギンがサダメ青年を追いつめるのではなくぎりぎりまで説得を試み、考え抜いた末にこの提案を出したことは興味深い。さらにギンはその後に「これ、僕、割と本気の提案なんですけどね」と前置きした上で、互いにおすすめの文学作品の貸し借りをしようとまで言っているのだ。
 この提案そのものは、幼少期のギンとクロハの間で交わされたやりとりの反復である。かつてのクロハもまたサダメ青年のように"近代文学"(私達にとっての近現代文学)を愛好するがゆえに、「萌え」が支配する二十三世紀の下では孤独だった。友達はおろか両親すらもクロハに理解を示してくれない。「私まちがってない! みんながおかしいんだもん!」と叫べば叫ぶほど、クロハは孤独に自らを追いやっていく。
 そんな時にいつもクロハの傍らにいたのがギンだった。地下書庫に閉じこもったクロハに「そこにある本の内容、どれでもいいから僕に話して聞かせてよ」とお願いする。「どうして」というクロハの問いに対し、ギンは「クロハの言う素敵なお話を僕も楽しみたいからだよ」と答える。そうしてギンに心をひらいたクロハは、何度もそのようなやり取りを重ねながらも、ギンが傍らにいることで自身の孤独を満たしていった。その結果、クロハは"正統派文学"への批判的な態度と寛容さを両立させて育つことになり、サダメ青年のように世界をまるごと憎むようなことはなくなったのである。

 この二つのエピソードから「孤独が満たされれば世界に対して寛容になれる」という教訓を導き出すことも可能だろう。だがここで気をつけなければならないのは、その孤独を満たしているのがクロハと同じ境遇に立つ理解者ではないということだ。クロハと"正統派文学"=世界の間をつなぐのは、あくまでクロハの愛好する作品の「何が良いのかちっともわからない」ギンなのである。
 サダメ青年の場合は、歴史改変の影響によって彼の賛同者が現れ、少数派ながら一定の勢力をもつようになった。ここではじめて、サダメ青年は現実に同胞を得て、新たな「われわれ」を獲得することができた。彼の孤独は満たされたことだろう。
 しかしながら"正統派文学"がいまだ覇権を握っている世界においては、主義主張を共有する「われわれ」はともすれば原理主義者の集まりと化す危険性もありえたはずだ。それは個々の成員に強い連帯感を与え、あるいは連帯を要求しかねないもので、それは"正統派文学"側の態度と本質的に変わりないものだ。なおかつサダメ青年が現代から二十三世紀に戻ってきた時、既に「有明文化保護特区」は存在していることになっていた。ということは彼はその運動と成立の過程に直接関与しておらず、いきなり仲間ができてしまったということだ。もしギンたちとのやり取りがなかったら、「われわれ」を得たサダメ青年の原理主義は強固なものとなり、"正統派"との理想的な共存を模索する道は断たれていたかもしれない。
 幸いにも本編ではサダメ青年の態度は軟化し、文化保護運動団体がテロ組織化することもなかった。だが一歩間違えればそうなる危険性は存在していたのだ。

 対して、ギンがクロハ試みているのは、クロハという「わたし」を"正統派文学"側の「われわれ」に取り込むことでもなければ、クロハに協調あるいは連帯して反"正統派文学"派たる「われわれ」を立ち上げることでもない。「わたし」のままで異なる「わたし」――目の前の「あなた」と交渉すること、つまりは「他者」を「他者」のまま認めることである。
「他者」とは、時に優しく、または時におぞましい理解不解な存在だ。その恐怖から、私達は個別に存在する「他者」を心の中に定めた架空の「やつら」に埋没させるか、架空の「われわれ」に取り込んでしまおうとする。そのような「われわれ」への同一化を強要せず、「わたし」は「わたし」のまま「あなた」という個別の対象に相対する。二者の間をつなぎ、共存への可能性を開いていくものとして、『僕の妹は漢字が読める』では「翻訳」が持ち出されているのだ。
 当然、これはオオダイラによる古典文学の「翻訳」とは異なる。オオダイラのそれは文章そのものをないがしろにした「読み替え」であり、自分の思想の範囲に収めようとするふるまいに過ぎない。だがギンの提案する翻訳とは「読ませてあげる/読んでもらう」ためのものであり、「わたし」が目の前の「あなた」と通じ合うためのコミュニケーションの出発点となるものだ。

 ところで大塚は『憲法力』にて、リービ秀雄氏の著書を引用している。その引用によれば、「いまだ成立せぬ未来へと向けて国際社会を立ち上げていこう」というニュアンスが英文憲法には含まれているのだという。これは中高生による「憲法前文」や柳田国男が試みた「公共性」の概念と重なり合う。その一方、現代においては言葉が空疎化している。それは私達が「現実はこうなっているから……」と諦め、説明不要の原理に身を委ねるという「ことばへの裏切り」を続けて来た結果にほかならない。私達は理想を捨てるべきではない。そのために私達には実践としての「憲法力」が必要なのだと大塚は主張する。
 この大塚による「憲法前文を通して考える」運動と「「翻訳」を通じてコミュニケーションの場を作る」というギンの提案が相似形をなしていることは、本論を読み進めてきた読者なら理解できるだろう。そしてこの視点から『僕の妹は漢字が読める』の物語を見つめ直す時、「二十三世紀文学」の訳書という体裁をとる物語が次の言葉でひらかれる意味が新たに立ち上がってくる。

僕の妹は漢字が読める
それは、とても凄いことだ。」
(同掲書より)

 ここに示されるのは異端への蔑視の視線でもなければ崇敬の視線でもない。ギンからクロハへの尊敬のまなざしだ。
 それは自分とは異なるもの――「他者」を尊重する態度であり、同時にここでは「翻訳」を出発点に始まるコミュニケーションの可能性が暗示されているのである。


◇◇◆◇◇

 以上、『僕の妹は漢字が読める』における二十三世紀社会の状況を大塚英志の著作を参照しつつ考察した。結論を身もふたもなくいえば「結果はともかくきちんと話し合って解決すべきだったよね」の一言に尽きる。
 それにしても著者のかじいたかしの嗅覚とバランス感覚は見事だと思う。「そこを書いてしまったら途端にギャグでなくなる」ような部分を書いていないからこそラノベとして成立している部分がある。もっともどこまで自覚的に書いているかはわからないのだけれど……。
 ただ本作における問題の数々について著者自身が無自覚だとも思えないし、決着の付け方についてはいろいろと模索を続けているんだろうと思う。いずれにせよシニカルな視点からの読解を要求される作品であることは間違いない。

 今回でも充分にまとまってると思ったがどうやら続くらしい。そのうち明治時代や昭和にタイムスリップでもしたりするんだろうか。ともあれ続刊には期待している。