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おおかみこどもは「アニメ」の嘘をつく――『おおかみこどもの雨と雪』評

 雪山の銀世界を駆ける子どもたち。かと思えば、その姿はたちまち狼と化していく。母親は彼らを追って転げ回り、倒れ込んだ先で二人をぐっと抱き寄せる。
三人は屈託のない笑顔で笑い合う。
 狼人間の雨と雪、それに彼らの母親である人間の花。風変わりな家族に訪れる最高の一瞬は広々とした自然の中、躍動感に満ちたアニメーションとともに描かれる。他方、人間の住む空間は穏やかだ。ぽつぽつと灯りが浮かぶ街をカメラは写実的に捉え、アパートの室内はその散らかり具合まで細やかに描かれて住人の生活を垣間見せる。
 このような、動と静で描き分けられた「狼」と「人間」の世界を雨と雪は行き来する。その姿を通じて、本作はごく普遍的な思春期の葛藤を描き出す。最終的に彼らは各々が自分の生きる世界を選ぶことになる。
 ただ最後まで二人の目がデフォルメされたアニメ絵で描かれたことには疑問が残る。特に雨目は、山の「ヌシ」と同様に写実的に描かれるべきではなかったか。
人間を捨てて狼を生きること。それは表現の水準では、愛すべきキャラクターの目から、奥底の知れない動物の目への変形として表されるのが相応しい。花の物語を踏まえるならなおさらだ。しかし実際に変身が完徹されることはなかった。
 ここに「結局、アニメだから」という本作の態度が露呈する。普通でない子どもを抱えることの重大さも、子離れに直面する葛藤も描ききらぬまま、リアリティの度合いは常に揺らぎ続ける。アニメの表現がもつ魔力を過信した結果、本作は感情移入の予知のない中途半端なおとぎ話となった。
 だがラストでは母子の真実の絆が描かれていた。ただしそれはアニメーションやアニメ特有の嘘によってではない。アニメが描き得ぬものによってである。
 雨が去ったその場所で花は遠吠えを耳にする。野生を駆ける者の咆哮であり、かつての息子の肉声でもあるそれは、目には見えずとも雨の魂が変わらずに在る証にほかならない。
 声もまたアニメの魂なのである。

キネマ旬報2012年9月下旬号「読者の映画評」掲載