タケイブログ

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「映画」を目の前に立ち上げるために−−『CUT』評



 映画についての映画である。
だが古びた教養主義を掲げ、映画の堕落に嘆息するようなシネフィルのお説教映画ではない。だとすればこうも力強い映画とはなり得なかっただろう。
 もっとも秀二はそう見られかねない人物である。拡声器を片手に街頭で「映画は売春じゃない」と説くよりも、撮影費を稼ぐためにアルバイトでもすればいいだろうに。そう思った観客も少なくないはずだ。
 ところが秀二の下に兄の真吾の訃報と一二五四万円の借金が舞い込み、返済期限の二週間、彼は「殴られ屋」となる。それ以降、観客はひたすら秀二の痛ましい姿を見せつけられるのだ。
 秀二がぼろ雑巾のようになっていく様を周囲はただ見守ることしかできない。最も彼に近しい陽子でさえ、傷ついた彼をそっと抱くのみである。代わりに秀二自身の映画への愛が彼を支える。巨匠の墓前で「映画を撮りたい」と独白する場面はその強さの表れもである。
 しかし、いまや映画を撮れない状況に追い込まれた彼こそが、私達にとってまぎれもなく映画そのものである。
 秀二が本来払うべきツケのために真吾は死んだ。兄がヤクザであり、自分のために借金をしていたのを秀二は知らなかった。自身が今まで追いやってきたものを痛みとして引き受ける。それにより彼の映画への忠誠もまた本物となるのだ。
 最終日、秀二はヤクザに殴られ続けながら自身の愛好する映画百本を思い浮かべる。その姿には、タイトル、監督、製作年を記した英字テロップが画面中央に堂々と被せられる。諸般の都合もあろうが、あくまで情報として古典を提示する演出に監督の厳格な態度が窺える。
 真に映画に必要なのは単なる感傷や郷愁ではない。それらに淫すれば、秀二のいう「真に芸術であり、娯楽」としての在り方は観客に忘れ去られてしまうだろう。観客の目の前に映画そのものを立ち上げること。そのために監督は痛みをもって映画を撮り上げた。
 その上にこそ新たな映画が生まれるのだ、と。無音のエンドロールはそう伝えている。

キネマ旬報2012年3月上旬号「読者の映画評」掲載