雪と歌と白々しさと――『北のカナリアたち』評
「家族がほしかった」と、たどたどしく、搾り出すように語る信人の姿が痛ましい。恵まれない環境に育ち、吃音症を抱える彼は、生き難さというものを一身に抱え込んだ存在だ。しかし彼の切実さにこの映画は実のところ何も応えていない。
たとえば中盤で存在が浮上する警察官の男。彼に関しては断片的な回想と噂が示されるのみで、ただ「絶望した人物だ」という情報しか観客に伝わらない。そのために、彼とはる先生とその夫を巡るドラマは唐突で作為が目立つものとなった。
または物語の牽引力となる謎がスライドする構成。結花の水難事故の謎が中盤で半ば解決してしまうため、最後に全員の問題が一挙に解決する、個々の問題解決が信人の救済につながるといった群像劇特有のカタルシスは損なわれていた。
最も致命的なのは、そもそも信人以外誰も過去の事件にさして呪縛されていないことだ。過去が何らかの形で現在に影を落としていればこそ、登場人物の行動には一貫した強い動機が備わる。だが本作では、今や何ら問題を抱えていない者すらいる始末だ。
こうした数々の綻びを、本作は雪に埋もれた北国の荒涼たる風景に覆い隠している。吹雪の中にたたずむ吉永小百合にバイオリンの旋律が被せられる予告編、告白の度に漏れ出ては吹雪にかき消える白い吐息。雪景色は変えられない運命や人生の象徴として、映画を悲劇的に印象づける。
そのイメージとサスペンス性を目論むシナリオのぎこちなさが観客に混同されてしまう。その点で本作は狡猾であり、同じことが「歌」にもいえるのだ。
幼い信人の喚き声に見出された旋律が学び舎を巻き込んで歌となり、やがて人生を連なる暖かい記憶となる。歌うことは生きることであり、本来はもっと力強いモチーフとなり得る。だが結局、登場人物が集まる必然性の無さを繕うために、合唱の感動的なイメージが通俗的に用いられてしまうのだ。
他人の同窓会に連れ込まれて余興に校歌を強要される。そんな思いで本作を観た。
※キネマ旬報2013年1月下旬号『読者の映画評』掲載