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泥の絵画、「糞」の透視図法――アレクセイ・ゲルマン『神々のたそがれ』評

 昨年公開の海洋ドキュメンタリー映画リヴァイアサン』は、その撮影にGoProカメラが用いられたことで記憶に新しい。GoProとはウェアラブルカメラのブランドであり、超小型で軽量なことから様々なシチュエーションに利用されている。同作の監督はそのカメラ一式を航行中の漁船の各所に設置した。海中と海面を行き来する網から見た無数の海鳥、黙々と作業する漁師のざらついた皮膚。人の手を解き放たれたカメラが見る映像はその一つ一つが鮮烈だった。
 だが独自の映像世界をもつ点において、今年公開の『神々のたそがれ』は同作以上に凄まじい。アレクセイ・ゲルマンの遺作となった本作は、異形の惑星とそれを見つめる「目」の両方を映画の中に創造したのだ。

 物語の舞台は中世ルネサンスの文明水準にある惑星。しかしその政情は反動傾向にあり、首都アルカナルでは知識人狩りが行われていた。地球からは文明観察のため学者団が派遣されており、その一人は現地の貴族ドン・ルマータの身分を装っていた。映画は彼=ルマータの動向を追うが、その内容など理解できたものではない。街は雨や霧で霞み、歩く度にぬかるみが音を立てる。泥、糞尿、食べ残し、がらくた、武具、画面はモノに埋め尽くされ、その物質的な存在感が我々を圧倒する。また人糞を顔に塗りたくる者、男根をこする仕草をする者、悪童、白痴、原住民達がわらわらと蠢き、その湿った顔が無気味にぎらついている。まるでヒエロニムス・ボスの地獄絵図。だがそれよりも汚らしく、猥雑で、途方もない。
 ストルガツキー兄弟による原作小説の英題は「Hard To Be a God(神でいることは難し)」。高度な文明をもつ地球人が「神」の座にあるその星で、文明不干渉の禁を破り圧制者から知識人達を救おうとしたルマータの困難と諦観がそこに暗示されている。ところが映画冒頭、二日酔いで目覚めるルマータはだらしない中年男性にしか見えない。しかも彼は武勲で勇名を馳せ、奴隷をぞんざいに扱う程度には「人間」の流儀に馴染んでいる。映画ではルマータ自身の凋落ぶりも示されるのだ。
 こうした作品世界の構築にあたり、本作ではある特権的な二つの視点が放棄されている。一つは透視図法的構図による「人間」の視点である。
 中世ヨーロッパ時代、絵画は神の教えを伝える媒体でありその様式は象徴的なものだった。やがて人文主義の花開くルネサンス期が訪れ、写実性を志向した芸術が現れ始める。その一環として発展したのが透視図法(線遠近法)だ。具体的には、描かれる光景の限りなく遠方に向けて収束するように事物を描くことで絵画に空間性を創出する表現技法である。
 ヒトの視覚に基づき外界をある一点から整序立てて配置すること。透視図法とはすなわち世界を理知的に把握する視座である。だからこそ反知性主義の蔓延るアルカナルの地にそれは成立しない。犬、鎖、ソーセージ、知識人、至る所にモノが吊るされ、画面奥では常に何かが動いている。多層的に構成されたその空間を見通すことはかなわない。

 一方で、映画は複数の動く映像からなる媒体でもある。そこでもう一つ放棄されたのが、映画を物語る「神の視点」だ。
 映画の各カットには当然ながらその視点の主となるカメラがある。だがそれらは大概作中には存在しない。カメラは主客や時空を超えて自在に移動し、異なる視点からの映像を繋ぎ合わせていく。「神の視点」とはその総体を把握する全知全能の視座である。ただしそこに「語り手」という一人格を想定できる文学等と異なり映画のそれは無人格だ。そして何よりその視点は複数の映像の連なりから逆説的に立ち上がっていく。そこから見えるもの、それこそが物語であり、登場人物の心理であり、要は映画そのものだ。
 切り返し等の定型的な映画文法は、観客がその視点に近づき理解できるよう製作者が予めその制御を試みた結果にほかならない。ところが本作では長回しで映される移動と会話は度々遮られ、常に状況の全体像も物語の焦点も不明瞭である。故に観客はその視点に立つどころか逆に映画の内腔に飲み込まれてしまう。かくして我々は混沌の只中をルマータと共に歩き続けるのだ。

 原作ではルマータの頭飾りが監視カメラであるという設定がある。だが映画を見る限り、カメラは時折ルマータの傍を離れ、通行人に声をかけられている。むしろ彼に同行する撮影者を想定した方が自然かもしれない。ただそれにした所でその動きはどこか漫然としたものに思える。そこからは地形のうねりにその身を委ね、人の群れに反応しているだけの印象を拭えない。
 ここにおいて、私は『リヴァイアサン』で漁船の甲板に設置されたGoProカメラの映像を思い出す。魚の死体が船に揺られて画面に近づき、視界を黒く塗りつぶしてはまた遠ざかりを繰り返す。被写体との接触を恐れず、投げ出されるままに剥き出しの世界を見つめる「目」がそこにはあった。本作のカメラもまたそのようなものではないだろうか。そして二つの視点を放棄したその場所には、翻弄されながらも外界を見つめるミクロな何者かの視点が立ち上がっている。
 果たして我々はそれを何と呼ぶべきだろうか。

「もし神に助言できるならば?」ルマータの発した問いにある原住民は答えた。「どうか我々を塵のごとく吹き払ってください」と。だが塵から造られた人間は塵に返らず、泥となって堆積し腐臭を放ち続けるだろう。そう思えるほどに彼の地は泥と汚物にまみれていた。否、この映画自体が巨大な臓物なのだ。曲がりくねった洞窟のような一七七分、分泌液さながらに吹き出る雨と霧。その中では誰もが皆、街の複雑な襞にこびりついた残滓に過ぎない。「神」から「人間」へと堕したルマータはその蠕動する腸から時間をかけてひり出されていく。
 つまりは「糞」視点の映画。文字通りやけくそになったルマータと共に、我々は繰り返される人類の愚行をその内側から見つめるのである。


アレクセイ・ゲルマン DVD-BOX

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