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漢字が読めない「僕」の文学――かじいたかし『僕の妹は漢字が読める』感想(修正版)

 作家を志す高校生のイモセ・ギンは、現代文学の旗手であるオオダイラ・ガイに会うために、妹のクロハとともにトウキョウにある彼の邸宅にやってきた。クロハのフォローもあって彼らは、二十人もの「妹」たちが外壁を彩るオオダイラの邸宅に招かれることになる。
 老齢でいかにも作家然とした風貌のオオガワラはギンと打ち解けると、ギンのために特別に未完成の最新作の原稿を手渡した。
『きらりん!おぱんちゅ おそらいろ』――漢字が使われなくなった二十三世紀の最先端を行く文学的な作品だ。
僕の妹は漢字が読める。それは、とてもすごいことだ」――そのように妹を評価しつつも、文学に対する妹の無理解を普段から嘆くギン。彼は妹の疑念など介することもなく、偉大な文豪の作品を前に心を震わせ、涙を流す。
 しかしこれだけでは終わらない。オオダイラとの出会いをきっかけに、ギンとクロハは文学をめぐるとんでもない冒険へと巻き込まれていく。

 発売前からネットで話題になっていた本書を読了。あらすじを聞いた時はコメディタッチで書かれるディストピアものを連想していた。けれども実際に読んでみると思いの外、真っ当なエンタメ作品だったように思う。
 兄を見守るツンデレ妹、口の悪いロリ妹、天然ボケのおっとり系、フェチズム全開のロリ×××といったキャラがきちんと配置されている。強烈な萌え要素はないものの、文学やラノベ携帯小説をパロった内容は痛快で、「もっとやれ」といいたくなる位に楽しい。物語に冒険感があってワクワクさせる部分もあるし、連続ものとしてしっかり話が展開しているのは好感触だった。
 しかし後に述べる通り、作中で書かれる十三世紀の世界はどうしてもディストピアに見えてしまう。そのために「表面で判断するな」という萌え文化 (メインカルチャーに対するサブカルチャー)を擁護するメッセージは、今の段階では説得力に欠けている。「表面」ではない「中身」をどう表現していくのか、今後の展開が気になる作品である。
 ところで本作は「漢字が使われなくなった日本」と「萌えがメインカルチャーとなった世界」という、二つの設定によって特徴づけられている。これらについていくつか思う所を述べたいと思う。


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僕の妹は漢字が読める』試し読みページ
http://www.hobbyjapan.co.jp/hjbunko/tachiyomi/1107/110702/_SWF_Window.html

 まずは「漢字が使われなくなった日本」という設定について。上に挙げた本書の試し読みページから第一章がまるまる読めるので、購入を検討中の方は最後まで読むといい。ウチの場合は冒頭の数ページしか読まなかったけれど、実際に同じ箇所まで読んだら見事に引き込まれてしまった。

 この第一章の終盤では、二十三世紀の"現代文学"のうちの一作、『きらりん!おぱんちゅ おそらいろ』の導入部が掲載されている。文豪オオダイラ・ガイが執筆するこの作中作には、平成時代の文学を参考にして書かれた"近代文学"版と、漢字の衰退した二十三世紀の文体で書かれた"現代文学"版の二つが存在する。両者は近くに並べられているので文体の差がわかりやすい。
 前者の文体は二十一世紀人たる私達にとって変哲のないものだ。ライトノベル風ではあるものの、漢字が使われているし、「てをには」がはっきりと存在している。要は文章の体を成しているので容易に意味を読み取れる。しかしながら、私達の感覚からすればありふれていてつまらないものだ。オオダイラが勉強して書いたこの文章を、もし仮に今のライトノベルの新人賞に送ったら、「文章が単調」とでも突っ返されてしまうことだろう。
 後者の文体は前者に比べると先鋭的に見える。しかしそれは漢字が使われていないことのみによるではない。よく見ると後者には「てをには」が極端に少なく、文のまとまりが短く分断されている。そして何よりセリフや擬声語、擬態語の多さが顕著だ。ここに漢字の不使用が加わることで、ぱっと見では意味を読み取れない、きわめて音声的な文体が成立しているのがわかる。

 内容の善し悪しはどうあれ、これはまさに「声に出して読みたい日本語」である。これにさらに挿絵が加わるのを考えると、二十三世紀の"現代文学"は、むしろ絵本に近づいているのかもしれない……というのは単なる思いつきだけれども、この"近代文学"から"現代文学"への変容の仕方に、ウチはとある作品のことを思い出した。かの筒井康隆による実験小説『残像に口紅を』である。
残像に口紅を』は、世界から五十音(+α)が一文字ずつ消えていくという状況を、実際に小説で使える文字を制限しながら執筆していった作品だ。小説で使える文字が少なくなれば当然、使える言葉も少なくなる。同時にそれは、同じ音が反復される頻度が高くなるということでもある。作品の終盤に近づくにつれて、本作の文章は次第に押韻同音異義語が増え、その文体は音声的になっていった。
 もちろん漢字という表意文字の不使用と五十音の禁止とでは、厳密には文体にもたらされる影響が異なるのだろう。それに作者の意図次第ではもっと別の文体になっていたかもしれない。しかし実際には、言語の制約が結果として文体を音声的なものにする様を書いている点で、『きらりん!おぱんちゅ おそらいろ』が代表する"現代文学"と『残像に口紅を』は共通している。

 その一方、"現代文学"には『残像に口紅を』と決定的に異なる点がある。すなわちそれは、"現代文学"の読解には、文章の生まれた背景に存在する萌え文化への理解が強く要求されるという点だ。これは文体そのものの特徴というよりも、むしろ作品世界における"現代文学"の扱われ方から見てとれる特徴である。ここにおいてはじめて、「萌え文化が極端な形でメインカルチャーとなった世界」という、本書のもう一つのSF的な設定が関わってくる。
 二十一世紀人たる私達が『きらりん!おぱんちゅ おそらいろ』を読んだ場合、まずは文章そのものの意味をかろうじて理解する。その時、マンガやアニメ、ラノベに馴染んでいる読者ならば当然、そこに書かれているものが「学校に遅刻した少年が見知らぬ少女とぶつかってパンツを見てしまう所からはじまるボーイミーツガールの物語」という定番の展開であることを読み取るだろう。もしくは具体的な他の作品を思い浮かべるかもしれない。
 なぜなら私達は、萌え文化の影響下にある物語の王道や萌え要素リテラシーのごとく共有しているからだ。要はお約束を知ってさえいれば、物語やキーワードを参照して様々なものを思い浮かべるので、作品の読解を助ける(あるいは方向付ける)ことになるのである。

 では本書における二十三世紀人はどうだろうか。彼らが生きる二十三世紀は、人間の総理に代わって二次元総理が国民の支持を集め、発掘された現代の魔法少女のフィギュアが遺物の如く扱われ、娯楽映画では少女の巨大化が定番となるような時代だ。そこでは二次元世界の具現化の欲求が頂点に達し、日常風景の多くを占めることで人類の想像力の基盤を成している。もはやそこでは実写や三次元が必ずしも現実感を保証しない。こうした環境下では、上にあげたようなリテラシーが文章の読解にもたらす効果はきっと大きいことだろう。そうした読解をしている様子は具体的には書かれていないが、所々に伺えるだろう。
 その極例が『きらりん! おぱんちゅ おそらいろ』を読んだギンの反応である。私達にとって、最小限に簡略化されたこの文章に「涙を堪えることができな」いほど感動するギンの反応は理解しがたい。それもそのはずで、この時にギンが涙した理由は「いかにオオダイラ文体がすばらしいか」という文体面への感動として書かれていて、物語内容そのものの吟味はほとんどなされていない。
 つまり作品の内容について圧倒的に説明不足なのである。おそらく一読して涙する程にはギンは意味をきちんと受け取っている。しかしそれは「もはや当たり前すぎて説明するまでもない」が故に、書かれなかったのではないだろうか。

 ここまで来ると、もはや萌え文化はリテラシーというよりもイデオロギーと化している。実際、オオダイラとギンの言動はイデオロギー的なものに満ち溢れている。たとえば"現代文学"に理解のない妹のクロハや文芸部の部長に対して、彼らが"現代文学"への誠実な態度をとるように要求する場面がある。
 しかしそれは、文章の精読から意味を読み取ることでもなければ、自然法則や現実社会、あるいは物語の論理に照らし合わせて作品内容を吟味することではない。「文学の基本たる妹モノ」「物語の冒頭はパンチラから」といった"現代文学"における様々な伝統を理解せよという態度だ。ここからは"現代文学"がメインカルチャーとして権威をふるっている様子が伺える。

僕の妹は漢字が読める』におけるこの伝統の称揚と前提への依存の態度は、残像に口紅を』をまったく異なるものだ。文体として両者は共通点を持っているとしても、前者は萌え文化という既存の権威への追従の結果であり、後者は言語という制度そのものに対する反抗的態度によるものとしてある。


◇◇◆◇◇

 さてこのように考えてみると、『僕の妹は漢字が読める』で書かれる二十三世紀の"現代文学"には、「漢字の不使用から導かれた音声的な文体をもつ」「萌え文化の存在を前提にしてはじめて意味を読み取ることができる」といった二つの大きな特徴が存在すると言えるだろう。そして本書ではこれらの特徴をもつ"現代文学"が、私達の時代の携帯小説ライトノベル等の延長にあるものとして意識されていることはいうまでもない。
 では"現代文学"にはどんな可能性があるのか。残念ながら本書はそこまではまだ深く切り込めていない。なるほど権威的な態度を"現代文学"側にとらせることで、"近代文学"や"現代文学"を問わずメインカルチャーを相対化するやり方は悪くない。しかし「文学は文学であるが故に正統なのだ」といわんばかりの態度が示されるばかりで、"現代文学"を積極的に支持する根拠は提示されない。また私達の"近代文学"の正統性に対する致命的な反論も皆無だ。一応、"現代文学"にも感情移入によって読者個人を救済できる可能性が示されてはいる。しかし「なぜ"現代文学"でなくてはならないか」の答えにはならない。
 さらにいえば、主人公たるギンがバカで素直過ぎるのも気になってしまう。これでは識字能力の優劣がそのまま知能の高低と直結しているようにしか見えない。ギンには上で述べた権威への追従の態度すら感じられるので、いくら「見た目で判断するな!」と言っても二十三世紀社会からディストピア感は拭い切れない。

 とはいえ当然作者もこれらの問題について自覚的だろう。単なる変態にしか見えないオオダイラの言葉を鵜呑みにして敬意を示すギンに、妹のクロハが警告する場面がある。その時の「いい? お兄ちゃんなんだから。コピーじゃなくオリジナルを目指して。そのほうが素敵だと思う」という妹のセリフで、作者はあるものをさりげなく示している。
 それはすなわち、最終的にギンがどうやって自分自身の言葉を得て、"現代文学"を支持していくのか、あるい"現代文学"を批判する新たな文学を生み出していくかという、本作のもう一つのテーマだ。今回の物語で、ギンが異質な文化に対する寛容さをわずかに獲得したように、今後の展開でこうしたテーマが前面に浮かび上がってくる可能性は充分にありうる。
 今の所、ギンの漢字に対する認識は「平成時代ものを書くのに便利なもの」といった程度の認識だ。それが"文学"の狭間を行き来することでどのように変化していくのだろうか。それらを問うことは二十一世紀と二十三世紀の文学がそれぞれ何を書き得て、何を書き得ないのかを問うことにも繋がってくだろう。あくまでシリーズが続けばの話であるけれども。


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 エンターテイメント作品としては、現時点における本作の「ライトノベルでもいいじゃない」という擁護の仕方でも充分なのだと思う。コメディの路線を保ちつつ、萌え要素を強化してくれれば言うことはない。
 けれどもせっかく設定と文体で話題を勝ち取った作品なのだから、ぜひともそういったテーマにも挑戦してほしいなと本書を読んで思った次第である。


僕の妹は漢字が読める (HJ文庫)

僕の妹は漢字が読める (HJ文庫)