アッバス・キアロスタミ監督作『クローズ・アップ』感想
失業者のサブジアンはふとしたきっかけから、ある一家に対して自身が敬愛する映画監督を騙ることになった。彼は一家に出入りするようになると、お金や食事の無心を続け、架空の映画製作を一家とともに進めた。当初は一家から尊敬と歓待を受けていたものの、ついにはその正体を疑われて詐欺罪で逮捕されてしまう。
イランで実際にあったこの事件を題材にするにあたり、アッバス・キアロスタミは当時進行していた企画を中断して本作の撮影を始めたという。キアロスタミは事件が過去の出来事となる前に、目の前で展開していく姿をとらえたかったのだろう。しかしそんな彼の態度が、結果として本作に不思議な印象を与えている。というのも本作はドキュメンタリーでありながら監督の介入が甚だしく、虚構性の入り混じったセミドキュメンタリーに仕上がっているのだ。
この虚構性とは単なるヤラセとは趣きを異にしている。たとえばキアロスタミは事件の状況を当事者に再現させ、その映像を作品に用いている、つまり被害者も犯人も本作のために自分自身という役を演じさせられている。また逮捕前後の取材陣の動きを追った映像には演出された場面と、おそらくは実際に起こったであろう場面とが混じっていて、そのどちらにも事件と直接関係のないものが見受けられる。さらに実際の裁判の場面では、監督とカメラが許可の下に立ち会っていて、裁判の流れを遮ってまでサブジアンに質問をする。「二台のカメラの一台はクローズ・アップ用です。皆に言いづらいことはこちらのカメラに向けて語りかけてください」と、監督は遠慮もなく人々にカメラの存在を意識させる。
何とややこしい作りなのだろう。人によっては本作における虚実の曖昧さに苛立つかもしれない。だがもし仮に本作がまったくのフィクションだったとしても、本作が人間の真実を映し出している映画であるのは疑いようもない。ましてや自らを他人を演じてしまった男の映画だ。この撮影スタイルがどれだけ大きな意味を持っているかは想像に難くないだろう。
そもそもサブジアンという男はお金や食事が目当てではなかった。一家は彼が映画監督であると聞いて彼を歓待し、彼の話に耳を傾け、彼の指示で撮影の準備を手伝った。そんな一家からの厚意について彼は「人が自分に敬意を表してくれたのはじめてだ」と語る。そして自分の喜びはあくまでも監督として振る舞うことにあり、それ故に監督を騙るのをやめようと思いながらも、結局彼はやめられないでいたという。つまりサブジアンに背景には「認められたい」という感情がある。子供を抱えながら失業してしまい、報われない身の上にある現在の彼は、他人が理解してくれない自分の”痛み”を、映画監督モフセン・マフマルバフの作品だけが見いだしてくれたと語る。このマフマルバフへの敬愛と他人からの承認を求める心が、彼に失業者ならぬ第二の生を生きさせることになる。
サブジアンの思いは切実で、誰もが抱えうる普遍的なものだ。悪く言えば、彼は私達の多くと同様に凡庸な人間である。だからこそ監督としての彼の言葉には中身がない。そもそも存在しない自作に対する彼の語りは、空虚であるのを通り越して、悲哀すら感じさせる。彼にとって映画(監督)は実人生でなく、ただ憧れに過ぎない。
そんな彼の言葉になぜ一家は騙されてしまったのか。一家もまた映画への憧れをもっていたからだ。特に次男による所は大きい。彼もまたサブジアンと同じく映画ファンであり、マフマルバフのファンである。彼は大学を卒業して半年も経つのに仕事がない。不況により技師からパン屋へと転職せざるを得なかった兄のことを見下し、自分はより崇高な映画や芸術関係の仕事に関わりたいと思っている。そうした下心があったからこそ自分はサブジアンに騙されたのだと、彼は素直に告白している。立身出世の手段として映画を求めながら、特に何をしている様子も伺えないこの次男坊は、他人から承認される手段として映画を求め、詐欺という形で実践してしまったサブジアンの裏返しになっている。弁舌が巧みであるとは言えないサブジアンに引っかかってしまったのも無理のないことなのだろう。
ところでこの事件が当時、どれほど話題になっていたのかは定かではない。ただ少なくとも、キアロスタミがこのような形で映画作品にしなければ、おそらくこの事件はとんだ茶番劇で終わっていたのではないだろうか。失業者としての凡庸な生とマフマルバフという映画監督しての空虚な生、その二つの生を抱え込んでしまったサブジアンという人間の全体を、作品の中で「主役」としてもう一度本人に演じさせる。キアロスタミは映画を通じてサブジアンの二つの生を融合させ、彼の人生を物語へと昇華させている。
それを端的に示しているのが、裁判官から「今まさに演じているのでは?」という問いに対するサブジアンの解答だ。何ともメタ的で意地の悪い質問だが、これによって『クローズ・アップ』という作品の物語が明確になる。本作はある男が自分が本来の人生とは別に映画監督としての人生を演じてしまった男が、再度演じ直すことで二つの人生を省みる視点を獲得し、両者を結び付ける自分の中の物語を理解するという物語なのである。現実のサブジアンがその物語の主役を演じたのか、それとも自分の人生として生きたのかはわからない。ただ少なくともフィクションの登場人物としてみた時、間違いなく彼は自分の人生を生きているといえるだろう。本作の物語を通じて、演じることがそのまま「痛み」の吐露となっているのだ。
作品の終盤では出所したサブジアンがマフマルバフ本人と対面する。自分がなり損ねたものを前にサブジアンにもはや己を偽る必要はない。あたかもその存在のすべてを認めるかのようにマフマルバフが彼を抱きしめると、サブジアンの目からは涙が零れ落ちる。この瞬間、彼は『クローズ・アップ』の主役として輝いた。
だがその後はどうだろう。映画は終わり、そして人生は続く。彼は自分自身の物語を生きていくことができたのだろうか。
きっと生きたに違いない。ウチは心からそう願っている。