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「ほれぼれし」さこそ英雄の資質――『戦火の馬』感想

「ある馬が、次から次へと人の手に渡りながらも戦場を生き延び、やがて元の飼い主と再会する」という奇跡を描いた話。一見すると感動のドラマでありながら、その実何が言いたいのかについてはあえて曖昧にされているように思う。何よりその奇跡の理由の大部分が「その馬が「ほれぼれす(remarkable)」る馬だったため」とまとめてしまえる点で、本作にはどこか奇妙な味わいがある。

 たとえば本作では馬を中心にして飼い主たちのドラマが次々と展開していく。馬は何度も捨てられそうになりながらも心ある飼い主たちによって救われるが、一方で飼い主たちの描き方は淡白だ。馬を救ってから手放すまでは一人の飼い主が主役だが、しかしそれらの場面は間もなくぷっつりと途絶え、主役はすぐ別の飼い主へと移り変わってしまう。彼らは、死ぬ人は死ぬし、生き残る人は生き残る。その行く末に教訓を見出せるような何かは見当たらず、さりとて運命の無情さを描いているのでもない。ただ馬の魅力に惹き付けられた飼い主たちの、彼ら自身の物語や生活のほんの一部が垣間見えるのみだ。
 作品の中間部ではこのような飼い主達の人生模様が次々と展開される。いずれも単独で別の物語を組み立てることができる要素だろう。しかしそれらは緊密なドラマと構成しない。個別の要素に頓着し過ぎることなく、ぽんと戦場に放り投げていくかのようなこの提示の仕方によって、最終的に馬がもつそのカリスマじみた魅力が際立つことにになる。どこにいてもその馬は、生来の魅力によって新たな飼い主を得て、また別の場所へと走り去っていくのだ。
 これらの奇妙さは元の飼い主についても言えることだ。作品のはじめと終わりでは元の飼い主と馬の関係がきちんと描かれている一方、中間部ではまるで作品自体から消滅したかのように元の飼い主がほとんど登場しない。たった数年間であるとはいえ、その描かれなかった時間に馬とは無関係な飼い主自身の物語があるはずだし、その省略された物語を観客に連想させるものがあっていい。にもかかわらず、物語の終盤で戦場に赴いた飼い主はあいかわらず馬のことばかり考えている。また他にも女性との恋愛が始まりそうな場面がありながら、その後その要素が一切展開しない等といったこともある。これらのことから、馬がもつ「ほれぼれし」さはますます魔術がかって見えてくるのである。
 このように『戦火の馬』は人間ドラマとしては幾分捉えがたいものだ。しかし次々と現れては消えていく人間を中心に考えるのではなく、馬を主役にすえてその動向を追っていけば、本作の別の顔があらわになる。親からも飼い主からも引き離されみなしごとなった馬が、出会う先々で人びとの助力を得て窮地を切り抜け、最後は栄誉の帰還を果たす……この物語構造はおとぎ話のそれに似通っている。

 そう考えると何故ああも「ほれぼれし」さがまかり通るのかの説明がつく。「ほれぼれし」さとはおとぎ話の主人公が備える百人力のようなものであり、あるいは主人公であることの証明そのものだ。そして元の飼い主がお守りとして轡につけた表彰旗もまた、同様におとぎ話に登場する特殊な力をもったアイテムに近い役割を担っている。本作は馬を主役とする、孤児の放浪記あるいは英雄譚として作られているのだと。そのようにはいえないだろうか。