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シャンカール監督・ラジニカーント主演『ロボット』感想


 百万馬力、精密動作、内蔵火器、……等々数多くの機能を備えるチッティは言うなれば夢のスーパーロボットである。だが彼は人間の感情を解さず、融通も利かないことから次々と騒動を巻き起こしてしまう。それらのシチュエーションはリアリティに囚われない数々の着想から形作られており、質の高い映像技術とあいまって観客の笑いを生み出している。
「ロボット」という言葉が喚起するイメージから生まれた豊かな細部。それをシンプルな物語にぎゅうぎゅうに詰め込んで物語を進める牽引力とする。本作が約三時間に渡る内容でこれを実現しているのは実に驚くべきことだ。

 このチッティ役をインド映画の”スーパースター”、ラジニカーントが演じている。博士の姿を模してロボットが作られたという設定上、主役のバシーガラン博士やロボ軍団もチッティ同様に彼の姿だ(CGやアニマトロニクスが使用されてはいるが)。歌うのもラジニなら踊るのもラジニ、活劇や戦いもまたラジニ間で繰り広げられる。
 ラジニ尽くしの本作は、映画と映画スターの双方を引き立てるのに抜群の題材といえよう。「面白くてものすごいロボットがいる。しかもそいつはラジニだ!」という驚嘆、それこそが本作の面白さなのである。

 もっともインド映画を見慣れぬせいか、度重なるダンスシーンには流石に飽きが来てしまった。ダンスは心象風景を説明する役割を果たすもののそれ自体が長尺だ。その上一つのシーンで劇から歌へとスムーズに連続するミュージカルとは違い、本作のダンスは場面転換して物語から独立した一場面を形作る。そのためにダンスが挿入される度に物語の流れが途切れてしまうのだ。インド映画は歌と踊りが定番であり、上映時間が長いことも知っていたがこればかりはやはり辛い。
 ハリウッド映画ならば尺の都合でカットされるであろう数々のシーンを、そのままに並び立てていくかのような構成が本作ではとられている。そこから鑑みるに本作にはプロットから映画を洗練させていく発想が乏しい、ないしは無視されている。代わりに「面白ければ何でもよい」のだという見世物的面白さの追求がなされているのだろう。

 ラストの怒涛の40分はアクション映画として見物である。ただ個人的に最も印象に残ったのは、チッティが博士の恋人であるサナに「私に感情はありません」と言う場面だ。チッティの言うとおり、この時点での彼は確かに感情をもっていない。しかしその時の彼の無表情な顔つきは、むしろその奥底にある未発達な感情を、あるいは感情以前の何かが蠢く様を想像させるのだ。
 登場人物が類型的な性格であるのと同様、チッティもまたキャラクターとしては類型的だ。しかしスターの顔をまとった彼がロボットらしく振舞えば振舞うほど、チッティは逆説的に人間のように見えてくる。感情が生まれる以前から存在する、目には見えない人間らしさ。それが彼を本作の主人公たらしめているように思える。

 しかし感情をもつや否や、チッティの愛は暴走し始める。そして最終的に彼はロボットの王として君臨し、サナを手に入れるためにあらゆる手管を尽くすようになる。愛に狂ったチッティの行動原理は単純きわまりなく、その言動もより陳腐なものとなる。この時、彼は観客の感情移入の対象から外れ、バシーと二人で分け合っていた主人公の座をも失う。葛藤を失うことでチッティは「悪役」という類型に陥ってしまうのだ。

 もっともある意味で彼はよりロボットらしくなったともいえる。「悪役」という存在は物語を進行させるための僕であり、装置であるのだから。