タケイブログ

ほぼ年1更新ブログ。

過剰なショーマンシップの果てに――『オズ はじまりの戦い3D』評



 まず3D演出の迫力。切り絵風のOPクレジット、燃え上がる炎、しゃぼん玉の膜。飛び出して見える被写体の選択が適切だ。とりわけ急流下りの場面はオズ視点の映像とあいまって臨場感がある。また『オズの魔法使』を踏襲する画面色の変化の演出にはサイズの変化が加えられる等、内容と結びついた映像表現が実に巧妙だ。
 物語の出来も良い。前日譚として旧作との間に矛盾がないのは勿論、かかしやライオンの思わぬ形での登場やCG映像でアップデートされた魔女等々。観客の連想を触発する場面が数多く含まれている。旧作を知らない観客には、奇術師が知恵と工夫で魔法に打ち勝つという、カタルシスのある展開を用意する周到さもある。
 このように、本作は娯楽作として数々の「仕掛け」を見世物のごとく配している。反面、そこに旧作の華やかさはない。現代の作法で描かれる登場人物の心理、魔女誕生の原因となる恋愛要素、オズが「選ばれし者」扱いされる展開。それらは一見して陳腐だ。
 ところがそれすらも実は「仕掛け」のうちにある。旧作を踏襲するキャスト上の「仕掛け」とかみ合う時、オズの冒険譚は意味を変える。オズの国とはすなわち、現実でオズが成し得えなかった望みが叶う夢の世界にほかならない。
 かつてドロシーは「やっぱりお家が一番」と唱えながら一時の夢から現実へと帰った。しかしオズは行ったきりだ。夢破れた一介の奇術師は永い夢の中、美女と仲間を携えて「グレイト」で「パワフル」な大魔王へと変身する。その展開は詰まる所、ハリウッドがショービジネス追求の果てに産み出した典型的な立身出世物語そのものだ。故にオズを大魔王たらしめるのは映写機なのである。
 タネもシカケもございます、さあとくとごらんあれ、と。過剰なショーマンシップが映画の「仕掛け」を仕掛けたそばから暴いていく。その果てに、本作はハリウッド映画の描く凡庸な夢を露悪的に「種明かし」するのである。

※ 『キネマ旬報』2013年5月上旬号 「読者の映画評」1次選考通過原稿より全文掲載


オズの魔法使 [Blu-ray]

オズの魔法使 [Blu-ray]