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愛あればこそ! ――瀬川深『ゲノムの国の恋人』感想

ゲノムの国の恋人

ゲノムの国の恋人

 瀬川深『ゲノムの国の恋人』を読了。ゲノム解析を専門とする日本人研究者が、「七人の令嬢の中から最も理想的な花嫁を選んでほしい」という依頼を受けてアジアの独裁国家に招かれるという冒険譚。現役研究者である著者による充実したディテールと、珍妙ながらもどこかリアルな異国の描写が冴える娯楽作。

 小説の本筋自体は単純で、研究者のタナカが独裁国家に行って、ゲノム解析の使命を果たして、帰ってくるだけ。けど当然一筋縄でいくはずがない。時折研究室の外に出て、その国の複雑な歴史を垣間見たり滑稽な政争に巻き込まれたりするうちに、彼自身の運命までもが転変していくことになる。
 たとえばタナカが軍のお偉方から接待を受ける場面がある。彼が連れていかれた先は、ディスコもゲーセンもいっしょくたになっている地下カジノ。その喧騒の中、人々の好奇の視線に晒されながら、彼はVIP席で○○○○○を振舞われることになる。彼が独りゲノム解析を行う場面の落ち着き具合や解りやすさとは裏腹な、この素っ頓狂さときたら! 今作は著者の過去作と比べてとりわけ娯楽性が高いのだが、その理由の一端がこうした異国の描写や誇張された登場人物の多さにある。とはいえそれらは荒唐無稽ではなく世界に目を向ければ十分にあり得そうなものだ。数々の道具立てやその筆力を駆使しつつ、この不思議の国には説得力が与えられている。
 やがて物語が進むにつれ、どの花嫁候補にも病気の素因があることがわかってくる。しかも結局の所、それらは可能性の問題でしかないのだ。そんな遺伝学の限界と、一人の人間に過ぎないタナカ自身の限界を通じて露わになるもの。それは、奇怪で滑稽なその国のありようが決して私達と無縁でないのだという事実にほかならない。

 ところで本作の帯には「遺伝子は愛を超えるのか!?」という惹句がある。無論、その問いは単純にイエス・ノーで答えられるものではないが、言ってしまえばその答えとは「遺伝子だけで全ては決まらない」の一言に尽きる。けれども著者はその学問的事実を敷衍し、より普遍的な物語へと仕立て上げた。
 血と文化は混じり合い国家の枠組みを容易に飛び越えていくこと。学問は聖域でも万能薬でもなく常に世の転変に左右されること。人の顔は一つでなくその存在は多面的で深奥であること。そして私達一人一人の中に、己の運命をあらぬ方向へと導く「熱」が秘められているのだということ。
 今もなお世間の耳目を集めるゲノム医療を題材にした本作。その物語はごく当たり前な、けれども私達がしばしば忘れがちなテーマで幕を閉じる。本作は、世界の揺るぎなさと人の営みの信を置く作家・瀬川深流の、壮大かつ矮小な、しかしながら愛と希望に満ち溢れたラブロマンスである。