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不安の種は日常に蒔かれる――『不安の種』評

 バスルームで女性が髪を洗っている。ふいに、湯船の水面がざわめき始め、次第に山のように盛り上がっていく。だが女性はシャワーを浴びていて気付かない。水の中から彼女を見つめる、人の頭のような「ナニカ」に。翌日、隣室の主人公は彼女が死体で発見されたことを知る。
 架空の街「富杏市(富沼市)」を舞台に、三人の登場人物に降りかかる恐怖の数々を描く本作。これはその一場面である。
 そもそも原作漫画は4P程度の掌編からなるオムニバスであり、たとえば前述の場面は、原作では女性の視点から展開する。気配を感じて彼女が湯船を見た時、はじめて彼女が見たモノがページいっぱいに描かれる。しかし漫画はここで途切れ、まったく関連のない次の一編に移るのである。
 作中の異形や怪現象の数々は、その正体も目的も何もかもが不明であり、目撃者の顛末さえわからない。朝方に、夕暮れ時に、学校に、道端に、アパートに。日常の隙間に潜む「ナニカ」がふとした瞬間に顔を出す。そんな因縁に拠らない不条理さを描けばこそ、原作は読者に現実と地続きの不安を与えていた。
 映画もまた不安を煽るつくりなのは確かだ。彩度を落とした映像が街の不気味さを際立たせ、不自然な画面の構図は緊張を生む。時系列のシャッフルは、登場人物の迷い込む悪夢の世界を体感させる。だが私達観客にはしょせん他人事だ。なぜなら彼らの言う通りヘンなのはあくまで「富杏市」なのだから。
 架空の土地を舞台に、一本の映画としてストーリー性が備わることで不安は普遍性を失う。しかも演出の露骨さが人工的な印象を与え、映画はさながらテーマパークの様相を呈している。「地を這う目玉」「顔が藁の女」「マスクの男」等々、個性豊かな仲間達が私達をお出迎え。そして人気キャラクター「おちょなんさん」が登場し、パレードはクライマックスへ。
 詰まる所、本作は「富杏おちょなんさんランド」にほかならない。その園内は、不安を通り越してただただ気まずい。

※『キネマ旬報』2013年9月上旬号 「読者の映画評」1次選考通過原稿より全文掲載

不安の種 (1) (ACW champion)

不安の種 (1) (ACW champion)