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「音の粒」という音楽のありよう――『楽隊のうさぎ』評



 第一に、演奏。チューバが轟き、トランペットが高鳴り、クラリネットが踊る。吹奏楽部が題材の本作にはパート練習の場面が多く、さまざまな楽器が思い思いに音を奏でる。
 第二に、構成。プロを目指して退部したフルート担当、コンクールに出られず涙をこぼしたトロンボーン担当。映画は主役の克久の周辺にもカメラを向けるが、各々の部員に過度に肩入れしない。
 第三に、子役。オーディションで選ばれた四十六人に合わせて本作の脚本は書かれ、一人一人の個性があたかもドキュメンタリーのごとく自然に撮られている。
 部活動を題材に衝突・和解・団結のプロセスを描いた作品が多い中、本作はこれら個々の要素をドラマチックに構成せずあくまで克久の傍に映し出す。また自己表現としての音楽を描く作品もある一方、克久が打楽器に、とりわけティンパニに打ち込んでいく様子は実に静かだ。
 そもそも中学生である彼らは、己の胸のうちを饒舌に語る言葉をもたず、かといって他人と傷つけ合う程に尖ってもいない。他人と相応に距離をとりながらも彼らは自分の興味関心に忠実だ。克久の先輩の言葉を借りるなら、その素朴な有り様はまさに未熟な「音の粒」である。
 映画もまた「音の粒」を終盤の定期演奏会に揃えていく。ひとたび彼らが舞台に上がれば、吹奏楽部での思い出も直前までの心配事もそこにはない。一人一人がお互いの音に耳を傾け、ひたむきに紡ぐ音の粒のアンサンブル。彼らの演奏はどこか生硬さを残しており、流麗なメロディや躍動するリズム、完全なるハーモニーには程遠い。それでいてすべてを包み込むかのようにおだやかだ。
 守もおそらくはその響きを感じたのだろう。克久と同じ小学校出身の守はサッカー部でうまくいかず不登校となっていた。気づけば克久以上に「ずれ」ていた守。克久はそんな彼を演奏会に誘い、彼が来るのを待った。その結果どうなったかは、映画を見ての通りである。華々しさや力強さに彩られた青春映画、それらが描き得ない寛容さを本作はたたえる。

※『キネマ旬報』2014年3月上旬号 「読者の映画評」1次選考通過原稿を修正