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【読書感想】宇野常寛『ゼロ年代の想像力』自分用まとめ

宇野常寛ゼロ年代の想像力』読了したので、自分なりにまとめてみた。引用多し。
けど実家に帰省中でPCがないので構成しづらい。
また今度修正する。

 消費社会の浸透とそれに伴う社会の流動性上昇の過程で、「大きな物語」が機能しなくなるポストモダン状況が進行する。平成不況の直中、一九九五年に起きた阪神淡路大震災地下鉄サリン事件は、成長時代の終焉と人々の実存への不安を浮き彫りにした。
 もはや社会は「意味」や「価値」を与えてはくれない。社会的自己実現への信頼は低下したこの時代に、ある考え方が支配的になる。それは、「〜する」「〜した」こと(行為)ではなく、「〜である」「〜ではない」こと(状態)をアイデンティティとする想像力、自己像=キャラクターの承認を求める「引きこもり/心理主義」的傾向だ。
 この「引きこもり/心理主義」的傾向は、一九九五年から二〇〇一年ごろまで支配的な想像力となる。またここからキャラクターへの承認が母的存在によって無条件に承認される「セカイ系」が生まれるなどしていった。
「引きこもり/心理主義」というこの「九五年の思想」について、宇野は以下のように述べている。

「彼らの問題意識は確実に共有されていた。それは、比喩的に述べれば九〇年代の「引きこもり/心理主義」の鬼子として登場した「オウム真理教をどう克服するか」という問題意識である。九〇年代的な自意識は自己像=キャラクター設定の承認を求め、その欲望は小さな物語とその共同性への思考停止を導く。人々はそれが自分たちの小さな共同性の中だけで通用する限定された議事超越性=発砲スチロールのシヴァ神であることを忘れ、異なる小さな物語を信じる他者に自分たちの信じる擬似超越性を押しつけてしまう、つまり最終的には決断主義化する。」(第四章 2,76−77P )

 この問題の克服として提案されたのが、前期の宮台真司のまったり革命、旧エヴァ劇場版のメッセージ、小林よしのりの脱正義論だ。これらはそれぞれ可能性を秘めていたが、結局は失敗してしまう。およそ人は意味を求める存在であり、価値観の宙吊りの状態に耐えられない。
 こうした物語回帰の欲望に対応する形で、「新しい想像力」は生まれることになる。「引きこもっていたら殺されてしまうので、自分の力で生き残る」という「決断主義」だ。911小泉首相の「構造改革」路線、「格差社会」意識の浸透等、世の中の「サヴァイヴ」感に対応するこの想像力は、ゼロ年代ーーつまり二〇〇〇年から二〇〇八年ごろまでの国内文化に現れ始めていた。
 宇野は「決断主義」について、以下のように述べている。

「世の中が「正しい価値」や「生きる意味」を示してくれないのは当たり前のこと=「前提」であり、そんな「前提」にいじけて引きこもっていたら生き残れないーーだから「現代の想像力」は生きていくために、まず自分で考え、行動するという態度を選択する。たとえ「間違って」「他人を傷つけても」何らかの立場を選択しなければならないーーそこでは究極的には無根拠であることは折り込み済みで「あえて」特定の価値を選択する、という決断が行われているのだ。」
(同書 第一章3.21P)

 誰もがデータベースの海から欲望するままに小さな物語を読み込み、無根拠であることを折り込み済みのものとして「あえて」特定の価値観が選択される。そこでは「動員ゲーム=バトルロワイヤル」が展開されることになる。『無限のリヴァイアス』『バトルロワイヤル』『DEATH NOTE』『LIAR GAME』『仮面ライダー龍騎』『Fate/Stay night』等の諸作品はその反映としてある。

「歴史に代表される「大きな物語」ではなく、データベースから生成される「小さな物語」は、その根拠を持たない。そこでは、小さな物語たちはその正当性と棲み分けを守るためーーその共同性から誤配とノイズを排除するため、より厳密に敵と味方、内部と外部を区別するために、他の物語を排撃する。データベースから生成される小さな物語の共同性は、排他的な性格を帯びるのだ」

 この決断主義的な世の中をどのように生きていけばよいのか。宇野は宮藤官九郎よしながふみ木皿泉等の作品の中にその可能性をみる。

「彼らは一様に「終わり」「死」というファクターを導入した作家だった。l彼らの描く共同体は、決して永遠のものでも唯一のものでもない。その発生から「終わり(死)」が刻印されている。だからこそ、その一瞬に限られた共同性は入れ替え不可能なものとして機能し、超越正として作用する。そしてその超越性の存続を主張して暴力をはらむ(排除の論理が作用する)前に消滅する。「死」「終わり」を射程に収めることで、「モノはあっても物語のない」ポストモダン状況=「大きな物語」が作用しない世界は反転する。そこは「終わりなき(ゆえに絶望的な)日常」から「終わりのある(ゆえに可能性にあふれた)日常」に変化するーーそう、私たちは「大きな物語」から解き放たれたからこそ、むしろ生きている、ただそれだけで物語もロマンも存在する世界を手に入れたのだ。少なくとも絶望しない程度には、私たちの日常は豊かな物語にあふれている。」
3.331ー332P

 日常の中に発生からする自ら選び取った共同体がたとえ歴史から切断されたとしても、関係性の積み重ねによって入れ替え不可能なものとして機能するという。所与の小さな共同体の中でキャラクターの承認を要求することでも、相手を「所有」し共依存的な関係を築くことによって超越性を獲得しようとする「セカイ系」的な態度でもない。
 それはいわば日常の中に「おもしろさ」「生きる意味」を見いだす態度である。

「あなたが自分の思い浮かべる「こんな私」という自己像を誰かに承認してもらおうとしている限り、そしてそんな人間関係こそあるべき姿と考えている限り、おそらくあなたはどこへ行っても変わらない。
しかし、共同体における位置=キャラクターが、特定の共同性=小さな物語の中で与えられた位置のようなものにすぎないと正確に把握し、その書き換え可能性に挑めばその限りではない。
他者に対して、自身が抱く自己像の承認(押し付け)ではなく、共同性の中の相対的な位置の獲得で承認を得ようと考えたとき、つまり「空気」を読まず「こんな私」という自己像の承認を求めるキャラクター的実存から、それぞれの共同体ごとに合わせて位置を要求する「モバイル的実存」とも言うべきものに移行したときに、」小さな物語は誤配のない書き換え不可能なものから、書き換え可能なものに転化されるのだ。」
(第一五章 2,314P)

宇野は自分の島宇宙から他の島宇宙へて 手を伸ばすことが重要だと結論づける。


以上、まとめ。
読んでみて面白かったし、分析としてはその通りと思える部分が少なくないが、提示された解答そのものはやや古臭く、その主張は若者向けにしか作用しないように思える。

「終わりがない(それゆえに可能性に満ちた)日常を生きろ」と宇野はいう。しかし私たちは否応なしに日常を生きており、そのために既に何らかの折り合いをつけている。会社での人付き合い、町内会のような地域共同体、インターネットのコミュニティ等、所与のものにしろ選び取ったものにしろ、私たちは複数のコミュニティに流動的に属していて、それぞれの利益と不利益を受け取っている。
ひとつのコミュニティは愛すべき部分と憎むべき部分の双方をもち、そこからこぼれ落ちたものを自ら選びとった他のコミュニティで補おうとする。ひとつのコミュニティへのコミットしきることに無理があるから、他のコミュニティにもコミットするのだ。だから宇野の主張は、共同体に対するコミットを過剰要求することになりはしないか。個人の問題としてみた場合、ただ「寛容になれ」としかいいようのない問題に思えてしまう。共同体が互いにに半目しあうような排他性については……どうなんだろう。うーん。

何にせよ宇野のいう「日常」や自ら選び取った共同体というのが、小さな地域共同体やリアルでの人間関係を指しているように見えるために、「現実に還れ」のバリエーションに聞こえてしまう。
そこらへんが宇野の主張が古臭く見えてしまった理由なのかな……とは思った。