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『湖中の女』にゲームっぽさをみる――ロバート・モンゴメリー監督・主演『湖中の女』

湖中の女 [DVD]

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クリスマスの三日前、私立探偵フィリップ・マーロウは、ホラー専門出版社であるキングズビー出版社のオフィスにやってきた。探偵業のかたわら執筆した自作の犯罪小説を投稿した所、出版社から呼び出しの手紙が届いたのだ。面会早々に受け取った小説への評価は思わしくなかったものの、社長の第一秘書であるエイドリアン・フロムセットがある探偵仕事の依頼をマーロウにもちかけてきた。その内容とは、失踪した社長夫人の足跡の調査である。マーロウはエイドリアンが何か思惑を抱いていることに気づきながらも、彼女の依頼を引き受ける。

 レイモンド・チャンドラーのハードボイルド小説を原作とする本作は風変わりな一作である。というのも本作は、ほぼ全編にわたって一人称カメラの映像で構成されているのだ。
 カメラが映す映像は主役であるマーロウの視点を表しており、そのために語り部としてマーロウが登場する場面や鏡への映り込み以外に彼の姿は登場しない。見知らぬ部屋を眺め回す、美人の受付を見て思わず目で追ってしまう、他人の電報を盗み見る、草むらに隠れて警察をやり過ごす等々、観客はマーロウの視点を通じて彼の冒険を体感することになる。また当然ながら他の俳優たちは皆、マーロウである所のカメラに向けて演技する。図星を突かれたエイドリアンの苛立たしげな応答、それまで愛想の良かった男の不意打ち、現場を嗅ぎ回る探偵に対する警察の鬱陶しそうな表情、出版社のクリスマスパーティに乱入したマーロウに向けられる奇異の視線、……。カメラを通じてすべての演技が観客に向けて伝わるため、そこにはえもしれぬ緊張感が漂っている。
 今でこそ『クローバー・フィールド』『REC/レック』のようなデジタルビデオカメラ撮影によるPOV視点の映画は存在する。しかしフェイク・ドキュメンタリーやカメラ越しの映像ではなく、ごく普通の劇映画で一人称視点を採用した作品は珍しい。1947年の製作ともなれば、本作は当時としてはかなり野心的な作品だったのではないだろうか。マーロウは物語の冒頭から「一時たりとも目を離さないように」と、カメラを通じて観客に挑戦状をたたきつけるという大見得を切っている。マーロウ役のロバート・モンゴメリーが監督をも兼ねていることを考えれば、この演出に彼の自信の程がうかがえるように思える
 ところが残念なことに、これらの演出はエンターテイメントとしてはあまり上手くいっていない。確かに映像の構成はよく出来ているのだが、一人称カメラのみの映像が作品のテンポを殺してしまっている上に、その趣向が物語の筋に何も貢献していないのだ。
 事件やドラマの展開の仕方は古典的なハリウッド映画そのものだ。しかしワンシーン・ワンカットの体でとられているために(実際にはさりげなく複数のカットをつないでいるが)、息の抜ける箇所がなくややだれ気味だ。また会話シーンでは真正面からのバストアップが多いために圧迫感を感じてしまう。多くのシーンの入りが「建物→ドア→部屋→人」という探索のプロセスをたどっているのも単調きわまりない。
 さらに本来ならばカットを割って、マーロウの表情を見せることで成立したであろう会話中の駆け引きの感覚が損なわれているのも問題だ。ぶしつけなセリフを吐くマーロウがただぶしつけにしか見えない場面も多かった。ロバート・モンゴメリーという俳優を知っている観客ならいざ知らず、彼を知らない観客にとってマーロウのキャラクターはいささか後景に隠れてしまっている。
 このように本作は、劇映画の様式にそのまま一人称カメラを導入したことにより、劇映画としての利点をも殺してしまった。カットを割ることで生まれる映像のリズム、感情表現や省略による演出技法、それらが生み出す娯楽性が本作にはない。劇映画としては失敗作である。 

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 しかしながら、その一方で厳しく制約された本作の映像が、現代の私達に馴染み深いある別の娯楽メディアへと近づいていることは注目に値する。その娯楽とはすなわちビデオゲームのことである。
 ゲームについてはあまり詳しくないので印象論となるが……たとえばノベルゲームにおいては、その内面やキャラクター性はある程度後景におかれている。主人公を悪目立ちさせないことで、プレイヤーが主人公に同一化しやすくするためだ。そして複数の選択肢の中からセリフを選んでいくというシステムを通して、その物語はプレイヤーの意図を反映しながら進行していく。この際、選択肢となるセリフには自然な会話として成立するものもあれば、あまりにも唐突で会話の流れに無理を生じさせるものすらあるだろう。いずれにせよ、それらのセリフは物語を進行させようというプレイヤーの欲望に従うような作為性を帯びたものである。ゲーム特有のシステムがあればこそその不自然さは覆い隠されているが、ノベルゲームに限らず他にも数多くのゲームの主人公が、プレイヤーの作為の下に動く駒として存在する(キャラクターとしての個性を一切もたないドラクエの勇者はまさにその典型例である)。
 本作の主役であるマーロウは、映画の主人公としての振る舞いを見せる一方、このゲームの駒としての性質を備えている。マーロウの姿は画面に映らない。それにより彼の言動からは内面やキャラクター性が希薄になり、代わりに他の登場人物から証言を引き出すという彼の物語上の役割が前面化し、そのセリフはより作為性を帯びたものとなる。その作為性は、元来の劇映画であれば探偵モノの主人公に典型的な行動としてとられるか、あるいは「主人公がストーリーの駒になっている」といった映画の枠内で批判を受けるものであっただろう。
 だがそれは探偵小説や推理小説が本来的に備えていたものだ。FPSゲームRPGゲームの主人公がミッションやクエストの遂行を繰り返していくように、映画や小説の中の探偵もまた依頼の受諾や事件の発生をきっかけに捜査を開始する。その積み重ねにより探偵は物語を進行させ、観客を真実へと導いていく。その意味で探偵の存在は英雄に似ている。本作におけるマーロウの存在はその事実を指し示しており、彼の存在は多分にビデオゲーム的なのである。
 もちろん推理小説はゲームであるという認識は当時からあっただろう。しかしそのゲーム性が、本作では映画がもつアトラクション性と結びつけられて、結果的に現代のビデオゲームに近づいているのが面白い。マーロウがあたりをゆっくりと探索する様子にはFPSゲームを、また画面の中央に登場人物を捉えて対話をするシーンの多さにノベルゲームを彷彿とさせるものがある。後代のゲームと共通するそのような映像要素が、本作の古典的ハリウッド映画の映像には含まれている。もっとも映像面でいえば、それにマーロウ視点の映像には派手なアクションやスピード感もなければ、かといって登場人物がただ突っ立っているだけでもないので、FPSゲームやノベルゲームをプレイする人の感覚からすれば的外れな意見であるかもしれないのだが。
 もし仮に本作が、観客の思考や言動にマーロウが応答するという仕組みを擬似的にでも実現していたならば、本作は最古のビデオゲームとなっていたかもしれない。その時マーロウとエイドリアンとのキスシーンは、ゲームをクリアした(映画を観終えた)観客へのご褒美となるだろう。しかし実際にそうはならなかった。劇映画が生んだ奇形児として、本作はなんとも居心地の悪い画面を提供するのである。

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 ところで『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』『クローバー・フィールド』『REC/レック』のようなビデオカメラ越しのフェイク・ドキュメンタリーではない、一人称視点で撮られた劇映画は他にどんなものがあるのだろうか。
『湖中の女』を観て改めて理解したのは、フェイク・ドキュメンタリーがいかに通常のフィクションと大差のないものかということだ。手ぶれだらけの荒い映像は、記録映画的であるが故に撮影者の存在を強調する。またしばしばカメラの撮影者は交代するために、彼らは明確に登場人物の一部として観客に意識される。そこには登場人物の内面が明確に設定されている。フェイク・ドキュメンタリー映画がその名の通りに劇映画にドキュメンタリーの装いを与えた所で、そこには相応のドラマ性が持ち込まれ、架空の人物の心理をリアルにするという努力が行われてしまう。これは通常の劇映画とまったく同じである。
 一方、『湖中の女』では探偵という英雄じみた存在にカメラがおかれることで、一人称視点はこれらのアプローチとはまったく別種の試みとなっている。もちろん当時の映画全体が現代のような心理を描くものではないのだから、斬新さという意味では大差ないかもしれない。ただこのようなアプローチはむしろ映画の虚構性を高めるような努力であることは間違いない。『ハート・ロッカー』『DOOM』が一人称視点で取られた劇映画であるとも聞くが、なんとなくどんな映像かは想像がついてしまう。
 そんな中でも注目している作品がある。ムスタファ・アッカド監督『ザ・メッセージ』だ。この作品はイスラム教の開祖であるムハンマドの伝記映画であるにもかかわらず、ムハンマドの姿がまったく登場しない。なぜならムハンマドの姿を出すことはイスラム教の偶像崇拝禁止の教えに反するためだ。この無理難題に対する苦肉の策として、ムハンマド視点による一人称カメラが採用されているのだ。
 伝記映画であり、おそらくは教育映画の役割も果たしているであろう本作には、一体どのような演出がなされているのか。非常に気になっている。