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デヴィッド・ブルックス『迷宮都市』感想

 オーストラリアの文学者・デヴィッド・ブルックスによる短編集。友人から紹介されていたのをやっと読了した。

 本書に収録された短編のほとんどは数ページ程度の長さであり、その内容は不思議なシチュエーションを描いた一種の幻想小説である。だが必ずしもその作風は曖昧で夢幻的なものではない。むしろその印象は論理的なもので、本書には全体を通して叙述的な文体や観念的な描写が見受けられる。

イカラの街に、果たしてあなたが辿りつくことができるのかどうか疑わしい。そもそも、街を作った人たちに、あなたが辿りつけるようにするつもりがあったのかどうかも、疑わしい。街そのものが、信じられないほどの数にふくれ上がった入り組んだ迷路に満ちているだけではない。そこに到達するまでに辿らなければならない道もまた、かつて創案のされた最も奇妙な道である。」
(デヴィッド・ブルックス『迷宮都市』(福武書店、一九九二)表題作より抜粋)

「どの会議にも必ず出席し、いつも同じ場所に座る人がいるとする。彼は磨き込まれた長いテーブルに向かって、いつも同じタバコを規則的な感覚をあけて吸い、会議中に、いつも同じいたずら書きをしている。外見も、発言する内容も、行動のパターンも決して変わることがないために、ほこりっぽく生気に乏しい空間にゆっくりと吸収されてしまい、残った者たちにとっては特に目を向ける必要もない、家具があるに過ぎなくなってしまう、という現象が起こる。(中略)失踪ということは、人が何かの思い込みにしっかりと捉われてしまった姿の中で生き始めることを指すのだろうか? 末期になるとその思い込みの外に飛び出すことはむつかしくなり、疑いが生じたり揺らいだりすると、自己の形が失われていくということなのだろうか?」
(同書中「失踪」より抜粋)

 この点については、本当に「良くも悪くも」と言った所だ。作中で展開される独自の論理は、普遍的な体験や感覚から導き出されていて説得力がある。その一方で文章にエッセイじみた所があり、目に見える娯楽性に乏しい(登場人物の視点に寄り添った上での出来事の視覚的な描写や、彼らが会話するシーンの圧倒的な少なさと来たら!)そのため幻想的な内容を好んで扱う割には、それらをあまり上手く表現できていないのではないか、とすら思ってしまう。

 反面、スコシフシギ的なエピソードを描くのに彼の文体は相応しい。ある女の結婚式当日までのまぼろしの一ヶ月間を描く「失われた結婚式」、天変地異の果てに訪れた光景が美しい「ブルー」、一枚の木の葉が一日中ゆっくりと落ち続ける「あるまじきものたち」、人々が次々と消失していく様を恬淡と描く「失踪」。いずれの作品も、その叙述的な文体と描かれた出来事のシンプルさがマッチしていて読みやすく、面白かった。

「オーストラリアに文学なんてあるのか」というのは訳者あとがきからの引用だが、実際僕自身、オーストラリアに文学者がいるなんて知らなかったし、ましてやその内容が幻想文学であるとは微塵も思わなかった。オーストラリアにこういう小説が出てくる土壌があるとも思えないのだけど、このデヴィッド・ブルックスという作家はあくまで突然変異的な存在なんだろうか。

 といっても、そもそもオーストラリアについてはカンガルーと広すぎる土地のイメージ位しか持ち合わせていない。なので、そんなことなど知る由もないのだけど。


迷宮都市

迷宮都市