ダメ邦画について――『永遠の0』『ジャッジ!』『抱きしめたい』感想
「邦画はダメ」だと言われて久しいが、果たしてそれは本当だろうか。
映画界全般ではなく作品そのものに話を限定すれば、ここでの邦画とは主に大衆娯楽の色が濃い作品−−ベストセラー小説や漫画原作の実写映画、テレビドラマの劇場版、あるいキャストがウリの映画など−−を指す。これらの邦画に対してマイナスイメージを漠然と抱いている人は決して少なくないはずだ。
僕もまたその一人であるが、実際の所はこの手の映画をほとんど見ていない。そこで年明けついでに少しくらいは……と思い、見てきたのが『永遠の0』『ジャッジ!』『抱きしめたい−真実の物語−』の三本だ。
『永遠の0』はネット民話と難病モノの悪魔合体のごとき内容で、その露骨な戦争賛美色は脇におくとしても物語と演出の双方に安易さが否めない。『ジャッジ!』は思いつきめいたギャグの単なる羅列になっていて、そもそも映画として出来がひどい。さらには「オタク」「オカマ」に対するズサンなイメージで笑いをとろうとしていて、そのあまりの底の浅さに胸糞の悪い思いがした。
上二つが半ば予想通りのダメさ加減である一方、意外にも『抱きしめたい』が良かった。本作は実話が元になっており、交通事故により半身麻痺と記憶障害を患う女性"つかさ"と、網走でタクシー運転手をしている青年"雅己"の日々を描く。しかし本作は、実話を単なるお涙頂戴のメロドラマに貶めたりしない。物語の劇的な構成やエモーショナルな演出を避け、実にシンプルなラブストーリーを紡いでいる。それでいてユーモラスな所もある良作だ。
僕が本作を見た劇場では、観客はカップルか女友達同士か高校生集団かといった具合であり、およそスーツの男一人で見に行くのは若干つらいものがあった。それでも本作が良い方向に期待を裏切ってくれたことで、邦画が必ずしも「ダメ」でないことを実感できたのは僥倖だった。
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実話を映画化するにあたり、『抱きしめたい』ではどのようなアプローチがなされたか。本作の塩田明彦監督は、雅己がつかさを抱きかかえてタクシーに乗せる映画冒頭のシーンにふれて次のように語っている。
「僕もつかささんと雅己さん、二人を描こうとしたとき、そこがポイントになるな、とまず思いましたね。車椅子の女性とタクシー運転手が出会い、一番最初にやったことは"お姫様抱っこ"だったという。ご遺族の方々には大変失礼な言い方かもしれないけれども、『映画を感じる瞬間がここにある』と受け取ったんです」
(轟夕起夫「塩田明彦、「単純さ」を志向して」 キネマ旬報2014年2月上旬号より抜粋)
互いの距離が徐々に埋められていく恋愛モノの定式とは真逆の、いきなり体を密着した所から始まる関係性。塩田はそこを出発点に本作のシナリオを書いた。そして試行錯誤の末、「ストレートにこの二人の愛が魅力的であればそれでいいんだ」という結論に至り、今回の内容になったという。そうして出来上がった本作に、塩田は「"極限的なシンプルさ"を達成した」 という自己評価を下している。
実際、本作は驚くべき程にシンプルだ。劇伴の少なさ、小さな場面をつないでいく脚本、役者の顔ではなく行動を追うカメラワーク等々。映画は登場人物の感情から程良く距離をとり、二人の出会い〜死別までの過程を行為や出来事として綴っていく。特に、事故直後〜リハビリ中のヒロインの姿を記録映像風にしっかりと見せたあたりにはストイックな姿勢すら感じられよう。
しかしながら、予告編はやはりこうなってしまうのである。
「これは真実の物語」「日本中が涙した」「2人を襲う過酷な運命」といった煽り文句、難病を患う女性との恋愛、男が泣き叫ぶ姿、等々。監督が慎重に扱ったはずの要素がここでは前面に押し出され、さらにJPOPのサビがそこに被せられる。こうしてありふれたダメ邦画の予告編が出来上がる。
順序が逆になったが、僕の言う「ダメさ」とはこの予告編に醸し出されているような、情緒的雰囲気とその陳腐さにほかならない。『ジャッジ!』『永遠の0』は予告編と本編に食い違いがないのでまだマシだが、『抱きしめたい』は予告編が本編のもつ魅力を伝え損ねている。
無論、映画本編と予告編にギャップが生まれるのはある程度詮無いことだと思う。映画の企画・製作・宣伝は並行するものだろうし、特定の観客層に応じたアピールの仕方も必要なのもわかる。なので広告業界を諸悪の根元と断じることはできない。それでも、映画それ自体がもつ魅力が広告に反映されずに一定の様式に収まってしまう、という問題が本作からは見てとれる。なぜこうなってしまうのだろうか。
残念ながら、今の所はその問いに答えられる材料を何も持ち合わせていない。なのでさしあたり備忘録として上に書き記した次第である。