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映像がもたらす「恐怖」――高橋洋『映画の魔』

映画の魔

映画の魔

『女優霊(1996)』で中田秀夫監督とコンビを組み、つづいて『リング(1998)』『リング2(1999)』を世に送り出してJホラーの一大ブームを築いた脚本家兼監督の高橋洋。本書には彼の雑誌掲載論文やエッセイ等が集められている。
 Amazonのレビューで「ホラー思想書」と評されているように、本書にて繰り広げられる議論からは、高橋の映画への深い洞察と作り手としての意識の高さを感じられる。特に、「恐怖」を映画媒体の根源の関わるものとして捉える高橋の議論は、彼の諸作とあいまって相応の説得力を備えている。

 まずもってその着想が面白いのだ。たとえば高橋は澁澤龍彦の「ショックについて」を引きながら、「死をもたらすものとしての「映像」」という考え方について語る箇所がある。

「むろん今日、クリストファー・リーの血まみれの口を見て悲鳴を上げる者はいないし、そのことが『吸血鬼ドラキュラ』の価値を損なうわけでもない。「踏み越え」には時代の限界が常につきまとう。だが、そうした限界がはっきり判っているがゆえに、私には澁澤の語る「人を殺す映画」が逆に妙な現実感をおびえて迫ってくるように思えた。というのも、澁澤はこの時点では当然ながら『悪魔のいけにえ』(一九七三)を知らない。そして、あの映画を見たばかりだった私は、ある暗い可能性を思い描いてしまったのだ。もし『吸血鬼ドラキュラ』に悲鳴を上げていた観客が何かの間違いで(たとえばタイプスリップで)『 悪魔のいけにえ』上映中の映画館に紛れ込んでしまったら……、何も知らないうちにスクリーンにあの映画が映し出されてしまったら……。客席に明かりがついた時、そこにはポツンと死体が座っているのではないか。」

(高橋洋『映画の魔』(青土社、二〇〇四)「死ね死ねシネマ」より抜粋)

 シンプルながらもなんと胸が踊る着想だろう。澁澤の論文では、映像の誘発する「ショック」=「肉体への生理的なテクニカルな刺激」が死をもたらす可能性が示唆されていたが、高橋の着想にはそこからぐいと直感に掴みかかるような飛躍がある。なおこのSF的とも呼べる着想が『リング』に至るものであるのはいうまでもなく、他にも高橋の自作へと至る数多くの着想が本書にはちりばめられている。

 ところで上記の引用箇所では、映像によるショック死という即物的な側面が目立っているが、高橋が追い求める「恐怖」とはもっと根源的なものである。
 真の「恐怖」は魂をも脅かし、見る者を呪縛する。それは見た者の人生をも変えてしまう。「ああ、恐かった」ではすまされないものだ。つまるところ、それは「魂の破滅の可能性」への脅えにほかならない。

 映像の裂け目に潜み続け、私達に「恐怖」をもたらす存在――高橋はそれらを「魔」と呼ぶ。

「魔」とは、「何か触れてはならないもの」であり、「映像が現れた瞬間、切り開かれたある異常な感覚領域に介在するもの」であり、「映画の「外側」からやってくる何か」であるという。これらはいささか抽象的ではあるものの、怖い映像に出会った時の感覚が的確に表現されているように思う(ここ数年では『放送禁止3』にこの感覚を強く感じた。いずれこれについても記事を書きたい)。なおかつホラーに限らず、自分が惹かれる映像の特徴が言い表されていて、非常に示唆に富んだものだった。

 個々の映画評・作家論も面白く、本書で言及されているフリッツ・ラングの「怪人マブゼ博士」シリーズや馬徐維邦の作品評も実に興味深いものだ。
 本書はJホラーと呼ばれる作品群に興味のある読者にとって、一読の価値のある一冊である。