『V/H/S シンドローム』感想
若手映像作家6人によるホラーアンソロジー。ある屋敷に侵入したチンピラたちが、そこに遺された謎のVHSテープを一本ずつ観るという、いわゆるファウンド・フッテージものです。
個人的には大いに楽しみましたが、とても万人向けではないなというのが正直な感想で、まずもってPOV映像のしんどいことしんどいこと……。本作のほぼ全編は手持ちカメラで撮られており、常に画面が激しく揺れています。またビデオ映像を模したノイズも度々挿入されるので、映像酔いする観客もいるのではないでしょうか。
その上各話の内容がいずれも、
・脱童貞を目論む青年が盛り場で異様な女と出会う話
・旅行先のカップルに何者かが忍び寄る話
・Skypeで話していたカップルが心霊現象に遭遇する話
といったワンシチュエーションを描いたものです。映像的にはっとさせられる部分もありますが、なにぶん娯楽性に欠けている感が否めません(おっぱいの露出やグロ描写は多いのですが)
それでもなお私は本作を面白いと思います。というのも、本作のモキュメンタリーとしてのコンセプトと、それを実現する映画全体の演出と構成が秀逸だからです。
そもそもモキュメンタリーというジャンルは、『ブレアウィッチ・プロジェクト』をきっかけに日本でも広く知られるようになりました。その時点ではまだ、モキュメンタリーは「フェイク(偽物)」の「ドキュメンタリー」だったように思います。つまりドキュメンタリーの手法により本物らしさを装い、虚構を「世界のどこかで本当に起きたこと」であるかのように描く手法でした。しかしモキュメンタリーが様式化した現在、もはやそのような作品は多くありません。近年では、『グレイヴ・エンカウンターズ』『アパートメント143』等々、モキュメンタリーであることを織り込み済みで作られた作品、ドラマを描くための手法としてPOVを採用した作品の方が目立ちます。
しかしそんな「本物らしさ」を装うことだけがモキュメンタリーではありません。モキュメンタリーのもう一つの特徴、それは偶然の出来事を、アクシデントを描くのに適したスタイルであるということです。
たとえばPOVによる視点の制約は、劇中の出来事を現前に起きた事実として強調し、観客に目撃者になったような感覚を与えます。これによりアクシデントの発生に事態が急転し、映画の内容が変遷していく様をより効果的に撮ることができます。また登場人物は「被写体」と撮られるために、内面描写を必ずしも必要としません。そのことから、登場人物の反射的な行動や予測不可能な行動がより描きやすくなります。このように、モキュメンタリーとは理不尽で不可思議な出来事との遭遇に寛容な表現なのです。
とはいえ、現実には突飛なアクシデントが連続することがそうそうありません。それらを描こうとする場合、背景に何らかの理由や根拠、一貫した状況を用意する必要がでてきます。平たくいえば、映画にストーリー性が求められ、映画がリアルさから遠ざかっていきかねません。
この点に自覚的であることに『V/H/S』という作品の秀逸さの一端があります。説明もなく唐突に始まり唐突に終わってしまう、本作の一編一編はありふれた人々のワンシーンに過ぎません。しかもそれらは「ビデオに収められた映像である」という設定以外、共通点もつながりもありません。
そこでは「因縁」や「背景」といったストーリー性につながる要素が排除されて、アクシデントが誰にでも起こることとして映されている。アクシデントの偏在ではなく遍在を描くことで、本作の映像は再び「本物らしさ」に近づいているのです。
もっともそれだけであれば、本作は「世界のどこかで本当に起きた事」 を描いたかつてのモキュメンタリーと大差ありません。むしろ重要なのは、個々の映像の内容とそれらを無造作に繋ぎ合わせた映画全体がそのままインターネットの動画サイトと地続きのリアリティをもっている点にあります。
youtubeに代表されるインターネットの動画サイトは、現代の私達にとって身近な映像環境です。ある家庭のホームビデオから死亡事故の映像まで、youtubeには世界中のあらゆる映像が無数にアップロードされています。手持ちカメラで撮られた本作の映像は、まさに「どこかの誰かが撮影した」ような映像であり、youtubeに転がっていてもおかしくありません。
さらに面白いことに、本作には「ちんぴらたちが正体不明のビデオを一つずつ観ていく」という各短編をつなげる一編があります。しかしよく見ると、劇中でちんぴらの観る映像と私たちが観る映像が必ずしも同じかがわからないのです。
全編を統括するために、あるいは観客の立場を代理するために置かれたと思われた一編が、実は他となんら立場の変わらない、数ある映像のうちの一つに過ぎないということ。このアイデアにより、本作は映像の氾濫するインターネットの感覚をその映像に映し出すことに成功しています。
映像を「観」る立場は何ら特権的なものではない。世界中に転がっている他の「撮られ」た映像と同じに過ぎないのだ、と。そしてその乱雑さに身をゆだねる私たちもまた、いつでも「撮られ」る側に転じる存在であるのだと。その画面越しから本作は私達に語りかけるのです。
既にアメリカでは本作の続編が公開されており、日本での公開は来年の一月とのこと。短編集なので、なぞ解きに走らない限りは次も安定したクオリティで魅せてくれるはず。続編も楽しみにしています。