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人間の條件、猿の條件――『猿の惑星:新世紀(ライジング)』感想

かの名作へと連なる新シリーズ二作目。前作同様、CGとモーション・キャプチャーによる猿達の一挙手一投足から目を離せない。

映画は人類衰退の経緯を説明した後、シーザー率いる猿達の狩りから始まる。彼らは身振り手振りで意志疎通を行い、片手の槍で勢いよく獲物を仕留める。山中の集落に帰還し我が家に着くと、シーザーは産まれて間もない第二子を抱いて慈愛の表情を向ける。

躍動的な動きから繊細なしぐさまで表現するCG技術は驚嘆に値する。だがそれ以上に、通常映画がその作品世界を立ち上げる十〜二十分が、まるまる猿達の生活描写に費やされるのに驚きだ。後にマルコム率いる人間側の事情が描かれるにしても、本作の主役は紛れもなく猿なのである。

その後の展開は一見「猿と人間は共存できるか」を描いたものに見える。実際それは映画のサスペンスをなしているが、物語が旧作へと続く以上その結末は明らかだ。むしろ本作の中核は、猿と人間の戦争の引き金を引いたコバにある。コバはシーザーの腹心の友であるが、人間を憎むあまり暴走し、ついには猿の集落に自ら火を放ち仲間を扇動する。

銃を片手に人間を蹂躙し、破壊と虐殺の限りを尽くす。そんな猿達の姿がおぞましいのはそれが我々の似姿であるからだ。互いが互いを慈しみ合う猿達は人間よりも“人間”的な存在だった。しかし彼らは自ら築き上げた楽園を失う。他者への憎しみにより、結局は我々と同じただの人間に堕するのである。

その過程が人間の動きを取り込んだCGで描かれるのは何という皮肉だろう。本作は猿の堕落を通じて逆説的に人間を描くのだ。

最終的にシーザーがコバに引導を渡す。その際、コバが命乞いに持ち出したのは「猿は仲間を殺さない」という猿の教えだ。それに対し、シーザーは「お前は猿ではない」とはねのける。しかしそれはコバと同じ過ちであろう。

猿と人間、「われわれ」と「やつら」の境を分かち、その中に自他を埋没させてはならない。マルコムとシーザーが心を通わせたように、個と個の絆こそが平和を築くのだから。